ー降誕前第8主日礼拝 ー
――永眠者記念礼拝――
時間:10時30分~
説教=「闇をてらすいのちのひかり」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』3 章 16~21 節
(新約聖書 167頁).
讃美=488,489,544.
有史以来人類は、いわゆる「仮想現実」として「死後の世界」を想定し、世にある暮らしのありようを律するために用いてきました。また逆に、世にある生涯を終えた人の尊厳を保つため、また悲しみを癒すため、弔いを旧石器時代から営んでまいりました。目に見えない、日々の暮らし、とくに食べるというわざにも直には結びつかない、しかし目に見えない大きな力によって人は活かされているとの実感とその表現が生まれたとき、そこに文化が芽生えたと言えます。人をその他の生物と区別するその特徴はといえば、葬儀を執り行うかどうかにかかっています。 とはいえ『旧約聖書』では、弔いの場面こそ描かれるものの、人が死後どこにいくのかという問いかけについてはまことにシンプルです。人は死んだ後には「陰府」という地下の世界で眠っており、そのような人々が終わりの日にあって神の愛の統治のもとに復活するという理解です。亡くなることによって世にある歴史がリセットされるわけではありませんから、その人が生涯を全うしたその歴史が大切にされ、神もその名を覚えています。時代によって変わりはするものの、この理解は変わりません。
これが『新約聖書』になりますと、人の子イエスの教えの中には古代ギリシアの考えが入り込み、仮想現実としての死後の世界も混じり合う反面、救い主イエス・キリストがどの民とも、どこまでもわたしたちとともにいてくださるという理解に繋がります。『旧約聖書』では神に約束された救い主の姿はおぼろげでしたが、『新約聖書』ではその姿がわたしたちとともにおられるイエス・キリストとなります。しかもそのイエス・キリストは、世にあってもっとも辛酸を舐めている人々とともにあゆみ、その人々に神の愛を「癒し」という仕方で証しされました。それは病や貧困により社会から排除されている人々との交わりを回復するだけでなく、新しいものにするという道筋でなされました。しかしその結果キリストを待ち受けていたのは人々の称賛ではなくローマ帝国の政治に携わる者、またその利権を貪る者からの濡れ衣による十字架での処刑でした。排除されていた人々に代わってわたしたちの世から捨てられていくその最後の言葉は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」でした。しかしこの言葉さえ、神の愛を見失い、「神などいない」と途方に暮れるだけでなく、生きる道筋を見失いながら悶えるほかなかった人々の呻きと同じであり、救い主キリストはそのような人々さえもその地上の生涯の最後までお見捨てにならなかったという証しに他なりませんでした。これはユダヤ教の理解では決して想定できない救い主の姿です。
イエス・キリストに示された神の愛はさらに徹底されてまいります。身分が高く本来は死刑囚から遠ざかるはずの議員でありユダヤ教の律法学者であるアリマタヤのヨセフにその亡骸をひきとられ、その時代の倣いに則して横穴式の墓に遺体は安置され、巨大な岩盤でできた蓋で穴は封印されます。人の子として世にある時には神の愛に関わったすべての人々をその愛の渦に巻き込んでいったイエス・キリストは、こうして埋葬されます。しかし救い主としてのわざはこのときにも続きます。死後の世界であるはずの陰府にキリストが降ることにより「仮想現実」としての「死後の世界」とわたしたちの世の垣根が突破されてしまうのです。このような神の愛の実現に殆どの弟子が恐れをなして逃げていく中で、埋葬の三日後、十字架での処刑の最中に傷だらけになったその身体を清めるためにきた女性に、文字通り自らの復活を示し、人々が恐れる死に対する神の愛の勝利を宣言し、四十日にわたり恐れるばかりの弟子たちと交わりをともにして、自らに代わる神の愛の力である聖霊の助けを約束し、世のすべてが神の愛につつまれるとき「また来る」と約束し、「陰府」とは正反対の「天」へとその場を移していかれると『新約聖書』は記します。
イエス・キリストはわたしたちの眼差しを徹底的にこの世に向けさせます。そこにはこの世で考え出された「仮想現実」を突き破る神の愛の力があります。だからイエス・キリストがともにいるかぎり、わたしたちはいのちあるものが迎える現実としての死を、神に創造されたいのちが全うされるという意味以上に恐れることも、避けようとする必要もありません。なぜならいついかなるときにも、わたしたちにはイエス・キリストがともにおられ、聖霊のわざのもとにおかれているからです。キリストに示された神の愛とは、ともに苦しむ愛、わがはらわたが痛む愛です。その中で生涯を全うされていく方々は、すべての痛みをキリストに委ねられた後には、天に召されているとともに、世に遺された記憶とともにいわば御使いとしてわたしたちの道を示してくださります。「信仰の先達の足跡を思い出す」とは、まさしくこの天の御使いとなった方々、兄弟姉妹に希望を示されている事実を示します。主なる神はそのようにして、わたしたちにあふれるばかりの愛をそそぎ、死に打ち勝つ力をわたしたちに備えてくださいました。だからこそわたしたちは、困難な状況の中にこそ信仰の宝を忘れなかった人々を敬わずにはおれないのです。「真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが明らかになるためである」。これはいのちの勝利を証しする言葉です。