2022年7月21日木曜日

2022年7月24日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

 ー聖霊降臨節第8主日礼拝ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により対面礼拝を休止し、
当日は、教会からのライブ中継と収録動画による
リモート礼拝となります。
 

説教=「主イエスにしたがうあゆみとは」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』8 章 22 ~ 26 節
(新約聖書77頁)

讃美= 519,Ⅱ195,Ⅱ171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 『新約聖書』の福音書では、実のところイエス以外にも、癒しのわざを行う人々が少なからずおりました。当時の医療と呪術が混在する時代では、身分の高い人は別として、名もなき人々におきましては、今では民間療法としか言えない医療にすがるほか、概して病の床にあって生き延びる術はありませんでした。それは『マルコによる福音書』9章38節以下で弟子ヨハネがイエスに向けた「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」との言葉に明らかです。人の子ナザレのイエスの名前を僭称、つまりイエスに許可を得ないままにその名を用いて癒しのわざを行っていた人々が少なからずいた状況を明らかにしています。その上でイエスは「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。人の子イエスの行った癒しの奇跡について気づかされる箇所です。それは「逆らわない者は味方」、そしてキリストの弟子として授かるのは、病の癒しの奇跡をしようがしまいが、一杯の水であるところにあります。もちろん水資源が豊富な日本では別の視点からの解き明しも必要かもしれませんが、報酬が一杯の水であるところには目を注ぐべきでありましょう。確かに奇跡として癒しのわざを行う者は少なくありませんでしたが、その中には病の癒しと引き換えに多額の金銭や財産を無心する者もおりました。長血を煩う女性の箇所では、12年間も出血が止まらなかった女性が病の治療を続けた結果、いっこうに癒されず全財産を使い果たしてしまったという物語が記されます。イエスの服の房に触れるとたちまちのうちに病は癒されるのですが、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と実にあっさりと応じるだけで、後は「安心して行きなさい」としか申しません。このようなあっさりとした反応からは、人の子イエスが行う奇跡は、奇跡自体というより、奇跡が指し示す事柄にあるように思えます。
 そこで要になってくるのが本日の箇所。ベトサイダに到着したところ、人々がある盲人をイエスのところに連れてきて、触れていただきたいと願いました。イエスは盲人の手をとって村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて「何が見えるか」と尋ねた、とあります。「唾をつける」という行為は、盲人がイエスのものになったことを示しますが、同時にその時代に癒し人を自称していた者であればとりたてて珍しいわざではありませんでした。むしろ少しずつ盲人の目が開けてくる描写の細かさに現実味を覚えます。つまり当初は「人が見えます。木のようですが、歩いてくるのが分かります」。そしてイエスがもう一度文字通り目に手当てをいたしますと、よく見えて癒され、何でもはっきり見えるようになったとあります。このとき、ぜひ村に戻りなさいというのであれば、物語はそれとしてハッピーエンドで結ばれて、わたしたちにも理解しやすい話になるのですが、「イエスは『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された」とあります。一体なぜでしょうか。この箇所に、イエスの奇跡の指し示す事柄が隠されているように思うのです。それは、イエス・キリストとこの盲人が関わったことによって、盲人であったこの人と村人との関係性が大きく変わってしまい、ともすればこの人の身に危害が及ぶかも知れないという様々な闇を、人の子イエス自ら見抜いていたからだとは言えないでしょうか。盲人が目を開かれ、そして見たのは人の姿ですが、イエスが救い主、メシアとして見抜いたのは人の闇、また地域社会の闇であったかもしれません。『ヨハネによる福音書』9章では、生まれつきの盲人を癒す物語が記されますが、これもまた決してハッピーエンドでは終わらず、イエス・キリストと関わった事実を律法学者からあたかも犯罪者であるかのように取り調べを受け、家族からもさじを投げられる人の姿が描かれます。9章全てがその話に割かれてまいります。結果として癒しのわざを授かり光を得た男性は詮議から追い出されます。ですから『聖書』でイエス・キリストの奇跡によって病を癒された人々が、わたしたちの生活文脈の中でいう幸せな生涯をただちにたどったかと言えば必ずしもそうではないのです。イエス・キリストの奇跡と申しますものは、神の御子が十字架刑にかかり「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びにつながる奇跡であり、その道を通ってキリストが復活するという出来事へとつながっていくという、神の救いの壮大なわざに編み込まれている道筋でもあります。
 人生の窮状にあって救われたいという必死さの中で入信し、反社会的な結果に及んでしまうカルト宗教に、この国が汚染されている事実が幾度もメディアに浮かびあがってまいりました。どこまで真相を深掘りできるのか。その自浄能力が試されていますが、その実情はまことに残酷。そしてこの問題はわたしたちのすぐ隣にある痛ましさです。奇跡の何たるかをはき違えず、イエス・キリストに救いを求めてまいりましょう。救い主はイエス・キリストのみ。この確信こそ主イエスにしたがうあゆみの始まりです。