ー聖霊降臨節第6主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「育ての親としての聖書」
稲山聖修牧師
聖書=使徒言行録13章13~25節.
(新約聖書238頁)
讃美= 74,285,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「目から鱗が落ちる」「足を洗う」というような、聖書が出典だと分からないまま、日本語として定着している言葉があります。それまでのあり方を変えてしまうような驚きとの出会いを、パウロの回心に重ねて「目から鱗が落ちる」、何かよからぬ事柄からすっぱりと関わりを絶つ態度を「足を洗う」。『ヨハネによる福音書』13章1~11節の記事に基づくならば、厳密には「足を洗っていただく」となり、もちろん「感染対策のために手を洗う」とは全く異なる意味合いですが、しかしながら「足を洗う」という言葉の実行は実際にはそう容易くはありません。
いわゆる反社会組織、例えば暴力団に属していた者が組織を退き一般人になろうといたしましょう。その場合、現在の改正暴力団対策法、また暴力団排除条例では、通称「五年縛り・三年縛り」という条項が適応されます。つまりたとえ一般人として更生しようと励んだところで「規制対象者」という枠の中で扱われ、例えば銀行口座が持てない、クレジットカードの審査を受けられない、公団住宅を含めて賃貸住宅に住めない、携帯電話を持てない等、結果として職種も制約を受けるということで、実質的に社会生活が極めて困難なところに追いつめられ、行政支援の制約なども含めて困窮した生活状況の中で再犯を犯すという悪循環が生じています。キャッシュレス化やテレワークの進んだ今では家族もまた社会生活は一層困難です。同じ道路を歩き、同じ空の下を歩きながらも、わたしたちとその人との間には暮らしに天と地ほどの格差が生じます。それは映画や小説とは全く異なります。
本日の『使徒言行録』の箇所では、もはや律法学者サウロはパウロとして堂々とその名を書き記され、安息日にユダヤ教の会堂で『律法の書』すなわちユダヤ教の『トーラー』と『預言者の書』すなわち『ネビイーム』が朗読された後、ユダヤ教徒の聴衆を相手に励ましの言葉として、いわばユダヤ教にとっての『聖書』の解き明かしをするところに及びます。しかしこの地にいたるまで、決してパウロを含めた使徒の働きが順風満帆に進んでいたとは考えづらいところがあります。現に助手であるヨハネは異邦人伝道についていけずエルサレムに帰ってしまうという事態にいたります。律法学者であったところの学識も活かしながら、パウロは洗礼者ヨハネにいたるまでの預言者のあゆみ、そしてナザレのイエスの復活を語り、聴衆は次の安息日にも同じことを話してくれるよう頼んだと、本日の箇所の後にある42節では記されます。さらにパウロとバルナバに多くのユダヤ人と、神をあがめる改宗者がついて来たので、二人は彼らと語らい、神の恵みの下に生き続けるように勧めた、とあります。本日拝読した聖書箇所にもありますように、パウロは聖書のテキストに則してメッセージを語り、人々を断罪せずに済んでいます。むしろこの場面で気になるのは、イエス・キリストが関わったような名もなき群衆、すなわち難民・寡婦・孤児といった人々ではなくて、ローマ帝国の支配にありながらも、古代ユダヤ教の世界で生活が一定の落ち着きを見ている人々が話しの聴き手であるところです。ですからパウロは本日の箇所で人の生き死にに関する奇跡を行うよりも、救い主イエスがユダヤ教の『律法の書』『預言者の書』に記された「神の約束の成就」であると落ち着いて語ることができるのです。もちろんこれは使徒として実に重要な働きです。しかし、この箇所を記す際に『使徒言行録』の書き手は、パウロが使徒となった大きなきっかけを、今日の記事に先んじて記します。それは使徒ステファノの殉教です。その時代のユダヤ教徒に石打ちの刑で処刑・殺害されるまで、会堂ではなく、エルサレムの最高法院(サンヘドリン)で「あなたがたは神の愛の力に逆らっている」と『律法の書』『預言者の書』に則して語ったその言葉が、自らに向かって響きます。パウロの会堂でのメッセージは、あくまで使徒ステファノの渾身の証しに接ぎ木されてこそ、初めて神の力を帯びていることをわたしたちは忘れるわけにはいけません。ステファノのこの生きざまをたどるかのように、パウロはその生涯の最期、イエス・キリストの出来事に裏づけられた働きとしてローマ皇帝に直訴し、証しを立てるにいたります。
わたしたちはこのような人々の証しを、『聖書』に記された記事を通して知り、神の愛の証しへの道が拓かれます。ものの価値判断の基準というものがあるならば、わたしたちの判断基準は『聖書』に根ざすことになります。もちろん『旧約聖書』には現代にも劣らず人の世の残酷さが浮き彫りにされるところもありますが、救い主イエス・キリストの愛は、その残酷さを覆い尽くしてやみません。刑務所の本棚には『聖書』が必ず置いてありますが、謂れなき恐怖や不安で縛られているわたしたちも世にあっては決して自由だとはいえません。暮らしの中でも汲々としているのが事実です。そのような者だからこそ、社会の片隅にあって苦しむわたしたちの隣の人、とりわけこどもたちへの支援の道筋を考えるのです。その支えがまた、イエス・キリストの恵みとして、わたしたちにも及ぶのだと感謝したいのです。パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』の中で、「『律法』はわたしたちをキリストへ導く養育係となった」と記します。わたしたちにも困窮の最中にいる人にも『聖書』は「育ての親」となり、導きを備えてくれます。