2021年11月18日木曜日

2021年11月21日(日) 収穫感謝日・謝恩日礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-収穫感謝日・謝恩日礼拝-

降誕前第5主日礼拝

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「今・この時、天に宝を積む」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10章17~22節

讃美=503(1,3節), 391(1,3節), 540.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】

 世界の企業のトップランキングの会社名が日本の会社で占められ、世の景気が爛熟期を迎えたバブル時代といえば、何を思い起こされるでしょうか。いずれにせよ浮かれた雰囲気に満ちていたような気がします。この雰囲気に矛盾を感じた若者は、禁欲的な修行で知られる新宗教に居場所を見つけようとします。その中で有名になったものにオウム真理教がありました。高学歴で生真面目な若者がこぞって教祖の話に耳を傾け、出家という名の家出をし、富士山麓の村に設けた施設に身を委ねるにいたりました。ことの次第はあえて申しませんが、数多の犠牲者をもたらした地下鉄サリン事件の実行犯として処刑された者の中には、わたしの五年上の高校の先輩も含まれていました。

 あらためてこのような影をも併せもつところの物質的な豊かさの中で世を敵視して大きな罪を犯して逮捕され、処刑されていった者たちは本来は何をすべきであったのかと、今なお犠牲者がおられる中で考えずにはおれません。

 本日の箇所では「たくさんの財産をもっていた」ところの人物が描かれてまいります。初対面のイエス・キリストに唐突に走り寄り、ひざまずいて尋ねるところを観ますと、人の子イエスにそれなりの敬意を払っていたことでしょう。しかしその質問は内容の割にはあまりにも唐突です。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。財産をもっていたこの人は「何を悟ればよいか」とは言っておりません。「何をすればよいのか」と、なすべき行ないや立ち振る舞いについて問うています。返す人の子イエスの答えとは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟を、あなたは知っているはずだ」というもの。主イエスの答えは「モーセの十戒」であり、その時代のユダヤ教徒であれば常識として誰もが知っている掟です。この答えに「たくさんの財産をもっている」この人はこう答えます。「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」。初対面の人物、しかも尊敬する相手への言葉としては、少し幼い気がいたします。モーセの「十戒」の誡めのもつ重さと難しさを視野に入れずに素朴に答えられるのであれば、さほど人生経験を積んできたとは思えません。その意味で「富める若者」との理解が定着したのでしょう。主イエスは資産家の若者に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」。イエス・キリストのこの言葉から、若者はただの資産家であったとは断定できないと考えられます。「たくさんの財産」。金銀だけでなく家もあり土地もあり、その時代のことですからたくさんの使用人がおり、奴隷もあり、ローマ帝国の人々とのつながりもあり、家族に恵まれていたかもしれません。福音書の中で主イエスに救いを求めに来た徴税人や病人とは全く異質の世界に暮らしていたことでしょう。このような経緯を踏まえるならば、主イエスは財産を売り払っての出家を決して促してはいません。むしろ「あなたが今、独り占めしているその豊かさは、本当のところ誰のために用いるのか」との覚悟を求めているように思えるのです。あなたのもつ豊かさを、あなた以上に必要としている人には、その豊かさはまさしく天に積まれた宝として計り知れないほどの値打ちをもつから、まずそれを献げてきなさいと語っているように思えます。そしてそれは献げる者自らには字義通り天に積まれた宝となります。現代ですら、小腹を満たすためのおにぎり一つが、ある人には一日の食事となる場合すらあります。それが深い関わりを互いにもたらします。そのような分かちあいへと踏み出す勇気を持てなかった若者は、悲しみながら立ち去ったとありますが、イエス・キリストは「慈しんで」とあるように、決して彼を見捨てておりません。若者が肩を落とし見捨てられたと思い込んでいたとしても、主イエスの愛なる眼差しは、絶えずその人に注がれています。

 経済バブルの崩壊から三十年。幾度もの経済的な危機を経て暮らしは「専業主婦・終身雇用制」から「共働き・ダブルインカム」が主流となりました。多くの試練を経て、障碍をも含めた多様性・こどもたちの多様性が少しずつ理解され、受け入れらていく途上にあります。社会も教会に集う人も五十年前とは確実に変化しています。かつて豊かさを楽しんだ若者たちは責任世代となり、物質的な豊かさに代わる人生の実りを見出そうとしています。そのような中で授けられた日ごとの実りを神に献げ、隣人と分かちあい、キリストの愛のうちに喜び過ごす日々をわたしたちは今・この時に与えられています。上辺の豊かさではごまかせなかった貧しささえも、わたしたちは分かちあい、新しい多様性と豊かさへとつなぐ祈りがあります。その実りを収穫感謝の祈りとして、神に献げていきたいと願います。