説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』28章1~10節
讃美:146(1,4), 148(1,2), 540.
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「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。見捨てられていく人々とその苦しみをともにし、歴史からも「はじめからいなかった者」として扱われて処刑・殺害されていった救い主であるイエス・キリスト。『マタイによる福音書』は、この苦しみと無力さに徹した救い主の生涯と、全く対極にあるところの政治力と暴力をほしいままにした世の力を対比させるようにして怒涛のように筆を進めてまいります。人の子イエスのいのちだけでなく、その存在すらも「失き者」としたい勢力は、その葬りにあたってもぬかりなく注意を払います。「あくる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。『閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るよう命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死人の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります』。ピラトは言った。『あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。』そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵を置いた」。本日の箇所に先んじて記されたところの復活の物語の導入部には、世の力をほしいままにした人々の恐怖心が隠されているのにお気づきでしょうか。人の子イエスの弟子はみな恐れをなして逃げてしまっています。けれども人の子イエスを十字架につけた者は、処刑し、そして葬られてなお恐れているのです。そして本来ならば支配する側、される側というしくみの中にいるローマ帝国の総督ピラトとエルサレムの祭司長は談合の機会をもちます。「念には念をいれて」ということでしょうが、その実態は救い主の言葉と生きざまへの恐怖です。ピラトは祭司と律法学者に責任を丸投げして墓の石を封印し、番兵を配置しました。厳重に封印され、兵士が監視する中、今朝の物語が描かれます。
マグダラのマリアともう一人のマリア。おそらくはイエスの母マリアと思われますが、葬られたイエスの様子を見に行くと、大きな地震が起きたと記されます。もう少し下手な翻訳をいたしますと、大きく大地が揺れたとも受け止められます。驚天動地の出来事が起きたのです。それはかつて人の子イエスの母マリアが身体にいのちを宿した際、夫ヨセフに伴侶を離縁する必要はないと安らぎに導き、やがて生まれ出ずる男の子に名をつけた天使でもありました。そして暴君ヘロデ王の追手から家族を守るために若い父親の夢に現れてエジプトへ逃れるようにと道を示した天使でもありました。それがこの箇所では文字通り実力行使に打って出て、人の子イエスが埋葬されている墓地の蓋を空けてしまったのです。幾重にも封印され見張りまでついた墓地の扉は、神の力の介入により開かれたのです。その結果何が起きたのでしょうか。武器や鎧に身を固めていた兵士らは自分の無力さを知り恐怖に畏き「死人のように」なってしまいました。そして丸腰でイエスの葬りの場に訪れた、その時代では語る言葉すら証言として認められなかった女性たちにミッションが託されます。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」。今やこの場に立ち会った女性は尽く主の天使の代理人としての役目を帯びて道を急ぎます。その行く手には「おはよう」といつものように挨拶する復活したイエス・キリストがいました。この挨拶は日常人々を苦しめた世にありがちなものではなく、悲しみの闇を吹き消す、まばゆい朝日の輝きのような挨拶でした。「主は生きておられる!」。
「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」。世の力でイエス・キリストの復活を「説明」するにあたって尤もそれらしく理屈を展開したのは人の子イエスを敵視し、尊敬するどころか軽蔑していた祭司長や律法学者、そして総督ピラトといった面々でした。他方で主の天使の言葉を託され、神の言葉のメッセンジャーとして悲しみの中から一転、喜びのメッセージを告げ知らせるべくガリラヤへと道を急いだのは、法廷での証言さえも認められなかった、世にあっては無力な中で辛酸を舐め続けていた女性たちでした。天の御使いはキリストの誕生の折には名もない羊飼いに現れ、復活の時はこのような女性たちに現れました。今、わたしたちの世界では、そして身のまわりには様々な悲しみの闇が覆っています。けれどもその闇を吹き飛ばす神の愛の光は、復活のイエス・キリストに示され、今もわたしたちを活かしてやみません。
マグダラのマリアともう一人のマリア。おそらくはイエスの母マリアと思われますが、葬られたイエスの様子を見に行くと、大きな地震が起きたと記されます。もう少し下手な翻訳をいたしますと、大きく大地が揺れたとも受け止められます。驚天動地の出来事が起きたのです。それはかつて人の子イエスの母マリアが身体にいのちを宿した際、夫ヨセフに伴侶を離縁する必要はないと安らぎに導き、やがて生まれ出ずる男の子に名をつけた天使でもありました。そして暴君ヘロデ王の追手から家族を守るために若い父親の夢に現れてエジプトへ逃れるようにと道を示した天使でもありました。それがこの箇所では文字通り実力行使に打って出て、人の子イエスが埋葬されている墓地の蓋を空けてしまったのです。幾重にも封印され見張りまでついた墓地の扉は、神の力の介入により開かれたのです。その結果何が起きたのでしょうか。武器や鎧に身を固めていた兵士らは自分の無力さを知り恐怖に畏き「死人のように」なってしまいました。そして丸腰でイエスの葬りの場に訪れた、その時代では語る言葉すら証言として認められなかった女性たちにミッションが託されます。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなたがたに伝えました」。今やこの場に立ち会った女性は尽く主の天使の代理人としての役目を帯びて道を急ぎます。その行く手には「おはよう」といつものように挨拶する復活したイエス・キリストがいました。この挨拶は日常人々を苦しめた世にありがちなものではなく、悲しみの闇を吹き消す、まばゆい朝日の輝きのような挨拶でした。「主は生きておられる!」。
「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」。世の力でイエス・キリストの復活を「説明」するにあたって尤もそれらしく理屈を展開したのは人の子イエスを敵視し、尊敬するどころか軽蔑していた祭司長や律法学者、そして総督ピラトといった面々でした。他方で主の天使の言葉を託され、神の言葉のメッセンジャーとして悲しみの中から一転、喜びのメッセージを告げ知らせるべくガリラヤへと道を急いだのは、法廷での証言さえも認められなかった、世にあっては無力な中で辛酸を舐め続けていた女性たちでした。天の御使いはキリストの誕生の折には名もない羊飼いに現れ、復活の時はこのような女性たちに現れました。今、わたしたちの世界では、そして身のまわりには様々な悲しみの闇が覆っています。けれどもその闇を吹き飛ばす神の愛の光は、復活のイエス・キリストに示され、今もわたしたちを活かしてやみません。