2021年4月8日木曜日

2021年4月11日(日) 説教(在宅礼拝用動画・要旨 当日の礼拝堂での礼拝・動画中継もございます。)

「世を打ち破る神の現実」
説教:稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』28章11~15節 
讃美:154(1,3), 164(1,4), 540.

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当日の聖日礼拝中継動画は、
4月11日(日)午前10時30分より始まります。
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 人の子イエスが葬られたはずの墓。それが空になったという出来事を報せに急ぐ女性たち。「あなたたがたより先にガリラヤに行かれる」と弟子に告げよとの天の御使いの声に「恐れることはない、ガリラヤへ行きなさい、そこでわたしに会うことになる」との復活のキリストの言葉を重ねて走ります。粗末なサンダルはいつの間にかちぎれ飛び、傷だらけの足になりながらもガリラヤを目指し、ひた走りに走ります。

 同時に復活の出来事に出会い「死人のように」なってしまった墓守の兵士たち。纏えるだけの武具に身を固めてはいたものの、天の軍勢にその力が及ぶはずもなし、今度は番兵たちがエルサレムへと逃げ帰ります。この「すべて報告した」というところで、祭司長たちが神の出来事の目撃者としての兵士の証言に、つまびらかに耳を傾けずにはおれなかったことが分かります。「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士達に多額の金を与えて」言うには「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」。兵士たちは金を受けとって、教えられたとおりにした、とあります。祭司長と長老たちのこの指示からは、キリストの復活の出来事に自らの陰謀が破れ、そしてその責任を番兵たちに押しつけているところが分かります。なぜならピラトは自らの権限で祭司長たちに番兵に墓を見張らせるようにと命じているからです。人の子イエスが十字架で処刑された後、その後の始末にしくじった番兵たちが無傷で済まされるわけがありません。番兵たちもまた、ペトロをはじめとした人の子イエスの弟子と同様に愚かでありましたが、さらに輪をかけて惨めであったのは、すでに祭司長と長老たちの泥縄に絡め捕られていたところにあります。

 このような番兵の行く末がなぜ読取れるのかと問われれば、わたしたちはイエスの弟子であり、かつペトロよりも格段に世知に長けていたイスカリオテのユダの道筋を知っているからだ、と申せましょう。もちろんイスカリオテのユダはこの時点での番兵とは異なり、ペトロに劣らず人の子イエスを慕っていたに違いありません。しかもユダは万事につけて大ざっぱなペトロとは異なり、食卓のイエスに注がれたナルドの香油の価値を、一般の年収分にあたると瞬時に見定める眼力を備えていました。ペトロが第一次産業の最前線で働く漁師であるならば、イスカリオテのユダはよりこの世の社会組織に食い入って収益をあげる能力を備えた人物でした。そこには幅広い人脈もありました。けれどもその知恵と人脈に絡め捕られるようにして道を踏み外していったのです。番兵たちと同じようにイスカリオテのユダは、祭司長たちに銀貨三十枚で買収されることを通して、人の子イエスの無実を訴えながら生涯を終えていったのでした。わたしたちにとってこの番兵、そしてイスカリオテのユダの姿は、果たして他人事として済ませられるでしょうか。

 世にある社会組織が全て神の道から外れているなどという極論は聖書には描かれてはまいりません。なぜならば「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と『ヨハネによる福音書』にあるからです。ですから実に奇妙ですが、この番兵たちもまた、期せずしてエルサレムにいる祭司長や長老たちに向かって立つところのキリストの復活の証人となってしまっています。おそらくはピラトの前でトカゲのしっぽ切りの憂き目に遭ったであろうこの番兵たちもまた、自分たちの勇ましさのゆえにではなく、復活の出来事に打ち負かされたという神の現実に打ち破られた者として、イエス・キリストの勝利の証し人にさせられました。

 わたしたちもこの名も知らぬ番兵たちと同じところに立つ者です。とりわけ人前に誇りうるところの手柄や業績を振りかざすときではなく、言い尽くしがたい深い痛みを胸に抱えたときです。わたしたちは概して自分を正当化しようと弁明する場合、とかく「世の現実はこうなのだ」という言葉を用いがちです。そこには自分のライフストーリーを無条件に認めて欲しいという神様にしかできないわざを相手に押しつけるという自由の濫用があります。それを聖書では罪と呼びます。しかしわたしたちが今最も問うべきは、不安に満ちた世の現実をしっかり見据えながらも、神の現実を問い尋ね、その当事者となるという態度です。復活の出来事を軸にして活かされるという姿勢は、単なる理想ではありません。無知で無学で、誰かの命令に従わなくては何も出来なかったはずの番兵たちにさえ実現できた生き方です。神の見えざる手は復活という出来事を通して、困難な時代を歩むわたしたちにも及んでいるのです。