説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』12章38~42節
讃美:308(1,4), 234A(1,2), 540.
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礼拝日当日も、YouTubeによるライブ動画配信を致しました。
悪霊に取憑かれ、視聴覚を奪われた病人の癒しをめぐって起きたベルゼブル論争。人の子イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力で種々の悪霊を追い出しているとの噂を祭司長や律法学者は流していきます。それは何よりもイエスを陥れるため。しかし陥れるはずの相手に「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と見抜かれただけでなく「毒蛇(Viper)の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」とまで言われる始末。おそらく憎悪に燃えた険しい眼差しで何人かの律法学者とファリサイ派の人々が人の子イエスに問い尋ねてまいります。イエス・キリストはただ一人、責め立てる者は大勢で人の子イエスに狙いを定めるのであります。
「先生、しるしを見せてください」。この箇所で「しるし」とされるのは英語ではsignです。これは「奇跡」とも訳されます。つまり、この箇所で人の子イエスに群がる憎悪に凝り固まった律法学者たちは、十字架で「奇跡を見せてみよ」と迫った人々に姿が重なります。この人たちこそ「ベルゼブル」、あるいは「レギオン」に相応しい、責任主体のない悪霊に取憑かれたありように陥っているのですが、当人たちはそれには一切気づきません。人の子イエスは、このような人々に次の話をされます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。しかし預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさる者がある」。この話には、『旧約聖書』の物語の中で、偏狭な民族宗教に凝り固まったその時代のユダヤ教に対する批判の物語として編まれた『ヨナ書』が引用されています。新共同訳聖書では僅か4ページの『ヨナ書』ですが、その内容には思わず息を呑むような場面が多々あります。例えば主役級の扱いをされている預言者ヨナ。ヨナは決して神の導きに従順な預言者、神の言葉を預かる者ではありません。むしろ神の導きに背を向けて遁走しようとするのです。その訳は神からニネベの都の救いを委託されたからです。
大都市ニネベは、史上初めてイラン・イラクからトルコ・パレスチナにかけての統一国家を打ち立てた大帝国アッシリアの首都として知られておりますが、このアッシリアこそ、かつてイスラエルの民を戦で破っただけでなく、虐殺に虐殺を重ね、伝統を破壊するために民族浄化を行なった人々であり、ヨナからすれば不倶戴天の敵といってよい人々が暮らす都でした。ニネベの人々を救えとの神の命令は、したがってヨナには到底受け入れがたいものです。しかし神はヨナをニネベの道に導くために嵐を起こし、船員は試行錯誤の挙げ句ヨナを生け贄として荒れ狂う海へと投げ込んでしまいます。その最中ヨナは巨大な魚に呑み込まれてニネベに到着し、都に悔い改めを呼びかけます。そのメッセージにニネベの人々は身分を問わず耳を傾けて悔い改めてしまいます。心に浮かぶ希死念慮を神に訴えながらも、ヨナはニネベの人々を滅びから救う器として用いられていくのです。イエス・キリストが仰せになった「敵を愛しなさい」との教えが、極めて視覚的に分かりやすく描かれているのに気づかされます。それでは「ここに、ヨナにまさるものがある」とありますが、これは誰の事でしょうか。それはまさしくイエス・キリスト自らを指しています。そしてソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたアフリカはシェバ国の女王もまた、物語の世界から立ち上がり「よこしまで神に背いた時代の者たち」を神の愛が世にあって完成する時に、悔い改めたニネベの者たちとともに立ち上がり、神から託された自由の賜物をみだりに用いる罪ある者として定めるというのです。そして繰り返されるのが「ここに、ソロモンにまさるものがある」との言葉。これもまたイエス・キリストを指しています。ニネベの人々は、イスラエルの民の敵でありました。そしてシェバの国もアフリカ奥地の、異邦の民の国でありました。つまりイエス・キリストはこの箇所で敵愾心やライフスタイルの違いで人々を分断する壁を突破する教えと生きざまを、敵対心に歯ぎしりするファリサイ派や律法学者たちに示しているのです。神の愛にしるしを求める。隣人を受け入れようとする愛にしるしを求める。それを奇跡だともちあげる。証拠を求めてあげつらおうとする。新型感染症に限らず、荒んだ今の時代に重なるありかただとは言えないでしょうか。しかしわたしたちはキリストにお叱りを受ける者として、聖書の前に立ちたいと願います。わたしたち自身人の愛に、信頼関係に証拠を求めずにはおれないのです。神の愛に証拠は無用。その言葉に全幅の信頼をおいて、恐怖に慄くこの時代、神を深く信頼して一週間を始めましょう。
「先生、しるしを見せてください」。この箇所で「しるし」とされるのは英語ではsignです。これは「奇跡」とも訳されます。つまり、この箇所で人の子イエスに群がる憎悪に凝り固まった律法学者たちは、十字架で「奇跡を見せてみよ」と迫った人々に姿が重なります。この人たちこそ「ベルゼブル」、あるいは「レギオン」に相応しい、責任主体のない悪霊に取憑かれたありように陥っているのですが、当人たちはそれには一切気づきません。人の子イエスは、このような人々に次の話をされます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。しかし預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさる者がある」。この話には、『旧約聖書』の物語の中で、偏狭な民族宗教に凝り固まったその時代のユダヤ教に対する批判の物語として編まれた『ヨナ書』が引用されています。新共同訳聖書では僅か4ページの『ヨナ書』ですが、その内容には思わず息を呑むような場面が多々あります。例えば主役級の扱いをされている預言者ヨナ。ヨナは決して神の導きに従順な預言者、神の言葉を預かる者ではありません。むしろ神の導きに背を向けて遁走しようとするのです。その訳は神からニネベの都の救いを委託されたからです。
大都市ニネベは、史上初めてイラン・イラクからトルコ・パレスチナにかけての統一国家を打ち立てた大帝国アッシリアの首都として知られておりますが、このアッシリアこそ、かつてイスラエルの民を戦で破っただけでなく、虐殺に虐殺を重ね、伝統を破壊するために民族浄化を行なった人々であり、ヨナからすれば不倶戴天の敵といってよい人々が暮らす都でした。ニネベの人々を救えとの神の命令は、したがってヨナには到底受け入れがたいものです。しかし神はヨナをニネベの道に導くために嵐を起こし、船員は試行錯誤の挙げ句ヨナを生け贄として荒れ狂う海へと投げ込んでしまいます。その最中ヨナは巨大な魚に呑み込まれてニネベに到着し、都に悔い改めを呼びかけます。そのメッセージにニネベの人々は身分を問わず耳を傾けて悔い改めてしまいます。心に浮かぶ希死念慮を神に訴えながらも、ヨナはニネベの人々を滅びから救う器として用いられていくのです。イエス・キリストが仰せになった「敵を愛しなさい」との教えが、極めて視覚的に分かりやすく描かれているのに気づかされます。それでは「ここに、ヨナにまさるものがある」とありますが、これは誰の事でしょうか。それはまさしくイエス・キリスト自らを指しています。そしてソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたアフリカはシェバ国の女王もまた、物語の世界から立ち上がり「よこしまで神に背いた時代の者たち」を神の愛が世にあって完成する時に、悔い改めたニネベの者たちとともに立ち上がり、神から託された自由の賜物をみだりに用いる罪ある者として定めるというのです。そして繰り返されるのが「ここに、ソロモンにまさるものがある」との言葉。これもまたイエス・キリストを指しています。ニネベの人々は、イスラエルの民の敵でありました。そしてシェバの国もアフリカ奥地の、異邦の民の国でありました。つまりイエス・キリストはこの箇所で敵愾心やライフスタイルの違いで人々を分断する壁を突破する教えと生きざまを、敵対心に歯ぎしりするファリサイ派や律法学者たちに示しているのです。神の愛にしるしを求める。隣人を受け入れようとする愛にしるしを求める。それを奇跡だともちあげる。証拠を求めてあげつらおうとする。新型感染症に限らず、荒んだ今の時代に重なるありかただとは言えないでしょうか。しかしわたしたちはキリストにお叱りを受ける者として、聖書の前に立ちたいと願います。わたしたち自身人の愛に、信頼関係に証拠を求めずにはおれないのです。神の愛に証拠は無用。その言葉に全幅の信頼をおいて、恐怖に慄くこの時代、神を深く信頼して一週間を始めましょう。