稲山聖修牧師
聖書:『ヨハネによる福音書』11章17~27節
讃美:310(1,2), 495(1,3), 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
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ベタニアという村。エルサレムの3キロほど近くにありながら、エルサレムの都に較べれば貧しさの中に暮らすほかなかった人々の姿がそこにあります。なぜそこで貧しさが浮かびあがるかと申しますと、ラザロという青年は、本来その時代の医師による治療を受けなくてはならないほどの病に冒されながらも、事実上医療による暮らしの支援を受けることがなかったからであります。ラザロの病がどれほど重度であったかについては、『ヨハネによる福音書』12章3節で、姉妹マリアが当時の平均年収ほどの金額もすると指摘を受けたナルドの香油を人の子イエスに振りかけたことからも分かります。その物語の中でイエスは「わたしの葬りの備えをしてくれた」と申しましたが、それだけの価値ある香油があれば、兄弟ラザロの治療費にするのが家族の情というものです。しかしマリアはそうはいたしませんでした。ラザロが病から回復するのを願ってやまなかったはずのマリアが、あえてそのようなわざに出た背後には、兄弟がそれまで関わっていた医療にことごとく裏切られ失望するほかなかった悲しみと、だからこそ人々には名にし負うイエス・キリストに賭けた一念というものを察することができるというものです。貧しさというものは、単にお金のありやなしやばかりを指すのではありません。貧すれば鈍するという問題にも留まりません。その地域で人が暮らすための条件となる設備が整っているかどうか。そのような事柄も含みます。例えば現在、わたしたちは新型感染症流行を抑えるための緊急事態宣言の只中にいます。その緊急事態宣言に先んじて、すでに大阪府では医療緊急事態宣言が発出されています。仮に財力があったとしても、わたしたち市井に暮らす者は、いざというときに診てもらう医療機関があるのか深い不安の中で調べなくてはなりません。救命ボートに乗り、海に漂っているときに金貨をいくら持っていたとしても無駄であるのと同じような状況に、ラザロとその姉妹はうずくまるほかありませんでした。
「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」とあるところ、ここは実に大切な箇所です。英語ではconsoleと申します。慰める、労わる、いずれにしても悲しみをともにするというあり方なしには成り立たないわざです。実はこの場に来る前に、弟子はイエス・キリストの歩みを遮ろうとしています。曰く「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行こうというのですか」。あるいは弟子のトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とすくむ仲間に檄を飛ばすような場面すら描かれます。でも実際そこで見た人々の様とは、弟子たちに敵愾心を燃やすのでもなく、憎しみをぶつけてくるのでもない、愛する兄弟を失い、悲しみに暮れる遺族に寄りそい支えようとする姿でした。その姿に人の子イエスの弟子は何を思ったことでしょう。故郷ガリラヤの貧しい漁村で幼いころに見た弔いの様子でしょうか。自分たちに刃を向けると思い込んでいたありようはそこにはなく、誰も彼もがみな等しく、遺族に寄り添い涙を流す人々がそこにいました。マリヤは心痛のあまり立ちあがる力もありません。人の子イエスを出迎えるマルタは声なき声で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言うのです。この段まではわたしたち自身、家族を天に送り悲嘆に暮れずにはおれなかった日々を思い出せば、十分に伝わるところです。しかし刮目すべきはマルタの次の言葉です。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。生と死という、人間には決して超えられない、目の前に立ちはだかる壁を、あなたは神との関わりとの中で超えていかれるとの呻きです。ですから「あなたの兄弟は復活する」と言われれば「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と幼いころから聞き及んだ聖書の教えを口にします。確かに、神の愛が世のすべての時も場所もをつつみこむときに、死者が甦るとの教えは繰り返し聞き及んでいたことでしょう。その線に立ちながらイエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。言葉による表現としては完全に崩壊しているところの「わたしを信じる者は、死んでも生きる」との声。「このことを信じるか」との問いかけにマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずのメシアであるとわたしは信じております」とはっきり答えます。嘆きに暮れるマリア、寄り添う人々の交わりの中でラザロのいのちの扉が開かれる瞬間。教会もわたしたちも、確かに困難の中に置かれてはいます。その中でキリストへの想いのまことさが問われます。祈りつつ、主にある深い平安への目覚めを授かりましょう。
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礼拝当日、4月25日(日)10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。
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ベタニアという村。エルサレムの3キロほど近くにありながら、エルサレムの都に較べれば貧しさの中に暮らすほかなかった人々の姿がそこにあります。なぜそこで貧しさが浮かびあがるかと申しますと、ラザロという青年は、本来その時代の医師による治療を受けなくてはならないほどの病に冒されながらも、事実上医療による暮らしの支援を受けることがなかったからであります。ラザロの病がどれほど重度であったかについては、『ヨハネによる福音書』12章3節で、姉妹マリアが当時の平均年収ほどの金額もすると指摘を受けたナルドの香油を人の子イエスに振りかけたことからも分かります。その物語の中でイエスは「わたしの葬りの備えをしてくれた」と申しましたが、それだけの価値ある香油があれば、兄弟ラザロの治療費にするのが家族の情というものです。しかしマリアはそうはいたしませんでした。ラザロが病から回復するのを願ってやまなかったはずのマリアが、あえてそのようなわざに出た背後には、兄弟がそれまで関わっていた医療にことごとく裏切られ失望するほかなかった悲しみと、だからこそ人々には名にし負うイエス・キリストに賭けた一念というものを察することができるというものです。貧しさというものは、単にお金のありやなしやばかりを指すのではありません。貧すれば鈍するという問題にも留まりません。その地域で人が暮らすための条件となる設備が整っているかどうか。そのような事柄も含みます。例えば現在、わたしたちは新型感染症流行を抑えるための緊急事態宣言の只中にいます。その緊急事態宣言に先んじて、すでに大阪府では医療緊急事態宣言が発出されています。仮に財力があったとしても、わたしたち市井に暮らす者は、いざというときに診てもらう医療機関があるのか深い不安の中で調べなくてはなりません。救命ボートに乗り、海に漂っているときに金貨をいくら持っていたとしても無駄であるのと同じような状況に、ラザロとその姉妹はうずくまるほかありませんでした。
「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」とあるところ、ここは実に大切な箇所です。英語ではconsoleと申します。慰める、労わる、いずれにしても悲しみをともにするというあり方なしには成り立たないわざです。実はこの場に来る前に、弟子はイエス・キリストの歩みを遮ろうとしています。曰く「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行こうというのですか」。あるいは弟子のトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とすくむ仲間に檄を飛ばすような場面すら描かれます。でも実際そこで見た人々の様とは、弟子たちに敵愾心を燃やすのでもなく、憎しみをぶつけてくるのでもない、愛する兄弟を失い、悲しみに暮れる遺族に寄りそい支えようとする姿でした。その姿に人の子イエスの弟子は何を思ったことでしょう。故郷ガリラヤの貧しい漁村で幼いころに見た弔いの様子でしょうか。自分たちに刃を向けると思い込んでいたありようはそこにはなく、誰も彼もがみな等しく、遺族に寄り添い涙を流す人々がそこにいました。マリヤは心痛のあまり立ちあがる力もありません。人の子イエスを出迎えるマルタは声なき声で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言うのです。この段まではわたしたち自身、家族を天に送り悲嘆に暮れずにはおれなかった日々を思い出せば、十分に伝わるところです。しかし刮目すべきはマルタの次の言葉です。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。生と死という、人間には決して超えられない、目の前に立ちはだかる壁を、あなたは神との関わりとの中で超えていかれるとの呻きです。ですから「あなたの兄弟は復活する」と言われれば「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と幼いころから聞き及んだ聖書の教えを口にします。確かに、神の愛が世のすべての時も場所もをつつみこむときに、死者が甦るとの教えは繰り返し聞き及んでいたことでしょう。その線に立ちながらイエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。言葉による表現としては完全に崩壊しているところの「わたしを信じる者は、死んでも生きる」との声。「このことを信じるか」との問いかけにマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずのメシアであるとわたしは信じております」とはっきり答えます。嘆きに暮れるマリア、寄り添う人々の交わりの中でラザロのいのちの扉が開かれる瞬間。教会もわたしたちも、確かに困難の中に置かれてはいます。その中でキリストへの想いのまことさが問われます。祈りつつ、主にある深い平安への目覚めを授かりましょう。