2019年6月2日日曜日

2019年 6月2日(日) 説教


マタイによる福音書28章16~20節
「キリストから託された使命」
稲山聖修牧師

『マタイによる福音書』の結びでは、イエス・キリストの昇天の出来事が直接語られはしない。復活したイエス・キリストはこの箇所で弟子や群衆との関わりの中で重要な舞台である「山」に登る。キリストの昇天は描かれないが、世の様々な動きから一線を画するその場で、弟子達に使命を託する。しかしその最中でも、イスカリオテのユダを欠いた11人は、復活のイエス・キリストにひれ伏しはしても「しかし、疑う者もいた」とある。この期に及んでも記される「疑い」とは何を示すのだろう。
 『マタイによる福音書』は、イエス・キリストの教えに重きが置かれるだけでなく、様々な政治力を背景にした権力との対決や向き合いに焦点があたる」。それはクリスマス物語の東方の三人の博士とヘロデ王との対峙の記事、そして王によるキリスト生誕の地ベツレヘムで起きた嬰児虐殺。キリストの埋葬の際にも、イエスを陥れた祭司長と律法学者の一部は、ローマ総督の赦しを得て番兵に墓地を見張らせ封印をさせるまでにいたる。『マタイによる福音書』では、クリスマスの物語にも、イースターの物語にも、政治的な様々な思惑に基づいたさまざまなうごめきが描かれる。祭司長たちはキリストの復活に立ち会った番兵を買収して、復活の出来事を、あたかもなかったかのようにしさえする。


このような世の権力のうごめきを踏まえると「しかし、疑う者もいた」との言葉の意味が次第に明らかになる。つまりこの「疑い」とは単なる弟子の不信仰を象徴しているのではなく、キリストの否定のために押し寄せる世の闇に、なおも怯えている者も11人の弟子にいたことを示している。しかし、復活のイエス・キリストは、そのような怖じ惑いを意に介さず、弟子のもとに近づいてくる。そして「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語るのだ。
 この宣言の前では弟子の疑いというような不甲斐ない振る舞いは些細な事柄として扱われている。なぜならば、わたしたちが、ではなく、キリストが天地万物一切の権能を父なる神から授かっているからだ。だからたとえ、世の力に対する恐怖や怖じ気づきがあったとしても「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とキリストは命じる。勘違いしたくないのは、すべての民は「キリストの弟子」になるのであって「わたしたちの弟子」になるのではない、ということだ。教会は徒弟制度のような縦社会の人間関係に飢えている場ではない。わたしたちにできるのは、片意地を張って「立派な人生の教師」として振る舞うよりも、イエス・キリストから決して目を離さないという生活態度に立つことだ。たとえ言葉がその時に聴かれなくても、言葉そのものが人の心の中で芽吹いて根を降ろすのであれば、人生は神の愛の力を受けて必ず開かれる。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。『マタイによる福音書』の結びは『使徒言行録』にある昇天の物語とは異なったキリストのあり方が示される。それはわたしたちの弱さや怖じ気づきに先立ってキリストが伴われるということであり、これこそがクリスマス物語の中で、天使が告げた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神が我々と共におられる』という意味である」というメッセージの完成体である。わたしたちは、この喜びの中を歩むことによって、いのちの力を軽んじ、いのちの光を覆わんとする世の闇に対して打ち勝つのである。イエス・キリストの生涯を通して明らかにされた神の愛。これこそが聖霊として言い表され、わたしたちに今もなお働きかける神の力として理解される。それは単なる感情の高ぶりとは異なる。だから聖霊には、頑ななあり方を打ち砕き、キリストを中心にして変幻自在に姿を変えていく生命力が秘められている。個人の特性に留まらず、国境や文化、言語や時代の異なり、悲しみや絶望さえ軽々と越えていく。キリストから託された使命とは、キリスト自らがお示しになったいのちの指標を基として、その多様性を喜び、かつ楽しんでいくことに他ならない。なぜならそこには主の平安(シャーローム)があるからだ。