2019年6月16日日曜日

2019年6月16日(日) 説教

ルカによる福音書10章17~20節
「天に名を刻まれる喜び」
稲山聖修牧師

 本日の聖書の箇所を丹念に味わおうとするのであれば、10章初めに記された、イエス・キリストが72名の無名の弟子を全ての町や村に二人ずつ先に遣わされたとの記事を無視できない。キリストは人としての欠けを補い合うという着想を重んじる。だから決して単独では用いない。しかもその際に10章1~10節では宣教の道筋を弟子に丸投げせず具体的に語っている。
この箇所にあるイエス・キリストの派遣の次第をまとめる。すなわち一切手ずからの財産を持って行くなという禁止命令から始まる。キリストの代理として派遣されるからには、徹底して無力なあり方に留まれとの命令だ。その中で「だれにも挨拶をするな」とは、相応の旅支度をして道行く者に物欲しげなそぶりをみせるなということでもあるだろう。迎え入れてくれる家があれば「この家に平和があるように」、すなわち戦時間平和とは異なるところの神の平和である「シャーローム」との挨拶を交わしなさいとある。迎え入れてくれた家であるからには、キリストの弟子であり、神の愛の証人であることを信頼しているはずだから、家を転々とせずに腰を据えて留まれという。弟子の養いは金銭ではなくて滞在先で提供される食べ物・飲み物。その家を宣教の拠点として、神の愛の力による支配が今まさに近づいているというメッセージを語れ、というのだ。


それでは72人の弟子がキリストに派遣された後に授かった実りとは何か。「72人は喜んで帰ってきて、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』」。今朝の聖書箇所では、よく言われる12弟子に較べればかなりの弟子がいて、その弟子たちがすべてキリストの公認のもとで、本来キリストがなすべきわざを行い、その実りに喜んでいる様子がありありと浮かぶ。ただし、少しばかり気になる箇所も描かれる。それは「イエスは言われた。『わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない』」。神との関わりを絶とうとするサタンが、天にいるというのは奇妙だ。本来ならばそこは父なる神のいます場であり、天使のいる場所であるはずなのだ。
思うにその姿には、さまざまな手練手管をもって初代教会を苛み、翻弄したところの世にある権力が重ねられないだろうか。自らの力によって、自らにひれ伏させようとする者が『ルカによる福音書』の記された世にあるローマ帝国にいたとしても、それは少しもおかしくはない。「狼の群れの中に小羊を送るようなものだ」とあるように、弟子はほぼ丸腰といってよい。果たしてどのような力でもって弟子は世の権力を屈服させたというのか。

その一つには、キリストの名によってとことん相手を侮らせるということもあっただろう。丸腰同然の弟子がたったひとつだけ失わなかったのは、イエス・キリストの名であった。イエス・キリストの名のもとに、72人の弟子は、簒奪ではなく献げるわざを、支配ではなく仕えるわざを、威圧や脅迫ではなく「この家に平和がありますように」との挨拶によって、癒しのわざを行ない、神の国の訪れを伝えた。力あるものをとことん侮らせ、かの者たちが恥じ入るところの弱さにこそ、神の愛の力であるところの聖霊が宿ることを実証した。だからこそ、弟子を誡めて「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と語りながらも、21節では「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれた」とあるように喜びを隠せない。
ローマ帝国の支配を前提にした『ルカによる福音書』は、その支配に内在する屈折や破れから決して目を離そうとはしない。けれどもそのような亀裂の中で丸腰同然で生きていかずにはおれなかった人々を、イエス・キリストは導き出し、御自身が本来なすべき役割を委託し、その実りに喜びを隠さなかった。主なる神のおられるところは、主なる神のおられるところであって、神や隣人、キリストを試みる者たちのいる場所ではないことを、世にあっては丸腰で無名の人々が証明した。天に刻まれる無名の人々の名前は、決して消え去ることはないのだ。