2019年3月3日日曜日

2019年3月3日(日) 説教

聖書:『ルカによる福音書』9章12~17節
タイトル:「開かずの扉が開くとき」
稲山聖修牧師

一日が終わる。イエス・キリストを追って集まった群衆は帰らない。弟子には不安と恐れが生じる。そして耳元でささやく。「群衆を解散させてください」。人数が増えれば不安が生れ、少なければまた呟きが生まれるというその人間くささが露わな箇所。けれどもイエス・キリストの態度は変わらない。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子の狼狽えに対する洞察にもまた鋭い目を向ける物語の書き手は、その狼狽えの理由を記す。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かない限り」。五つのパンと二匹の魚が可能性として描かれる『マルコによる福音書』と『ヨハネによる福音書』とは異なり『ルカによる福音書』の場合は狼狽えの理由、消極的な態度表明となる。要するに言い訳だ。けれどもキリストは、この僅かな食糧を、開かずの扉を開ける鍵として用いる。イエス・キリストは「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と命じる。そして粗末な糧に、天への讃美の祈りを注いで、割いて弟子たちに渡す。五つのパンと二匹の魚が増えたとはどこにも書いてはいない。しかしそこで奇跡が起こる。五十人ずつ座っていた、貧しいはずの人々の中で、後生大事にとっておかれた僅かばかりの食糧が、献げられた祈りに応える仕方で分かち合われる。僅かばかりの糧を分かち合う人々の群れには交わりが生まれている。今朝は「全ての人が食べて満腹した」、すなわち満たされたところに関心を向けてみる。「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる」。『ルカによる福音書』に記された、山上の垂訓には、神の支配の訪れが大いなる希望として記される。もたらされた交わりは、イエス・キリストを通して、今日でいうセーフティーネットワークを作りあげている。群衆はもはや他人同士ではない。再起する力と希望を、心身ともにイエス・キリストから託された「民」となった。「できない」という開かずの扉が開かれた。キリストによって集められた民となったその輪から、弟子たちに実りが新たに授けられる。「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」。弟子たちにはパンと魚は不安をかき立てるマイナス要因でしかなかった。しかしこのつましい糧がイエス・キリストの祈りの中に置かれたとき、飢えた人々を満たすだけでなく、その交わりを通してもたらされたパン屑が不安に苛まれた弟子たち、言い換えれば教会をも満たした。イエス・キリストの時代にはもはや政治的な拠点となり果ててしまった、歴史的な意味でのエルサレムの街とは異なる場所で、飢えた人を見たし、夢破れた人々を立たせる交わりの徴が、他ならない教会であった。
キリスト教会では用いられない和暦「平成」も三十年を数えて終わろうとしている。世界的には冷戦構造が崩壊し、どの国にも排他的な国家主義が大手を振って歩いている。そしてわたしたちの暮らす場。「一億層中流」、そしてバブル期に湧いた時代から一転して、規制緩和に伴う格差がいたるところで蔓延している。誰もが他人を顧みず、飢えた時代にはなった。そこに希望はあるのだろうか。バブル崩壊後に就職活動に励み、ようやく就労できたのも束の間、法律が次々と改められては、被雇用者にしわ寄せがいくしくみが作られた。税金も福祉や教育には容易には還元されない。生活保護を申請するよりは貧困の道を選び、あるいは社会保障制度を知らないことから起きる暴力と涙と憎悪が世を覆っている。その中に立つのだからこそ、教会に託された責任は大きい。わたしたちはイエス・キリストの開いた可能性に賭ける民である。