ルカによる福音書4章1~3節
説教:稲山聖修牧師
オリンピックを前に国がらみの情報操作が露骨になってきた。今朝の箇所はイエス・キリストが荒野で試みに遭う場面。試みる者は「悪魔」とされるが、今朝は紋切り型のイメージは置いて「神ではない者」として理解する。これにより、イエス・キリストが味わった誘惑が決して他人事ではないと感じられるようになる。今朝の箇所の始まりとして、イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を授かった後、聖霊に満ちてヨルダン川からナザレに戻り、なぜか荒野の中を「霊」によって引き回され、四十日間誘惑を受けたという物語全体の枠組みが記される。この文言からは、イエス・キリストは心備えや準備のないまま荒野に放り込まれたのが分かる。そして四十日という期間の間際になって、誘惑の「真打ち」が現れる。「神ではない者」からの誘惑だ。誘惑の根本となる第一の言葉は「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」。イエス・キリストは空腹の中でこの誘惑に襲われている。このような空腹の中になくても、わたしたちも暮らしの困窮について実に敏感だ。しかし、この誘惑に屈するならば、イエス・キリストは神でない者の言われるままとなる。この危機に対して主イエスは、旧約聖書の『申命記』8章3節「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」を用いる。「『人はパンだけで生きるものでない』と書いてある」。
次の誘惑は「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。イエスを高く引揚げるのは、かつてモーセの時代にエジプトの奴隷を解放した神だけができるわざであり、神ではない者には不可能だ。もしそれをしようものなら、排除を伴う強引さを伴わずにはおれない。しかしわたしたちの世にあっては却ってこの強引さが「やり手」「豪腕」として高く評価さえされる。暴力と隣り合わせの権力を持つ者があらゆる力と繁栄とを見せて、イエス・キリストに屈服せよと迫るのだが、キリストはそれすらも拒む。この誘惑にキリストは『申命記』4章13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」を返す。神との関わりを絶ったこの一切の権力と繁栄よりも、キリストは奴隷解放の神との関わりを上位に置く。神なき権力と繁栄とが覆っている世にあって、わたしたちは別の仕方で暮らしを顧み、暮らしに向き合う道を知っている。
そして最後の誘惑。この箇所の恐ろしさは、誘惑の言葉として聖書が用いられているところだ。「悪魔はイエスををエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』。」これは『詩編』91編11~12節の完全コピー、いわば完コピだ。聖書の言葉による誘惑。もし困窮の極致に棄ておかれ、この誘惑に遭うならば、わたしたちはいとも簡単になびいてしまうのではないか。耳障りのよい話や、感情を高揚させるメッセージ、さらには聖書を用いて戦争を正当化する演説。これこそが神の言葉への冒涜であり、神を道具とすること、すなわち試すことに他ならない。この誘惑に、キリストは『申命記』6章16節「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない」を返す。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とある。一時的な撤収の後、悪魔は再びやってくると『ルカによる福音書』は記す。それはイエス・キリストの生涯では十字架への道行きとその苦しみにおいて、そして神の前での教会の態度表明の不徹底さや、わたしたち各々の暮らしの判断の甘さの中に潜む。このような甘い言葉にどのように向き合えばよいのか。それは、イエス・キリストの歩みをたどりつつ聖書を味わうことだ。そして日々の暮しの中でイエス・キリストに深く根を降ろすことだ。イエス・キリストの足跡をたどり、その智恵を授かりながら、暮らしや教会の閉塞感の源である、錆びたドアノブに手入れをしつつ扉を開くわざこそ、受難節の始まりにふさわしい。