「全世界より大切なものとは」
ルカによる福音書9章21~27節
説教:稲山聖修牧師
イエス・キリストが御自身の苦難の道と世の力によって殺害され、そして葬られて三日の後に復活すると、初めて弟子に語る場面。一般論としては受け入れていた「遠い世界の話」が、目の前にいる人の子イエスを通して起きるなどとは、誰も考えてはおらず、思いも寄らなかっただろう。イエス・キリストが語るのは実に具体的だ。それは単に多くの苦しみを受けて殺害されるだけでなく「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と十字架刑での殺害が暗示されるのである。この箇所で十字架という言葉がはっきり記されることで、キリストに従う道が、弟子の予想を超えるだけでなく日常を覆しかねない恐ろしい出来事だと告げられる。『ルカによる福音書』の場合、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」の示すところがより簡潔に記される。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。「わたしのために」とキリストは語る。それは一体どういうことなのか。それは絶対服従の宣誓ではない。イエス・キリストの教えと歩み、そして証しとに従う。これは招きへの応えであり、宣誓とは異なる。名もなき人々との出会いを福音書が実に細やかに描いていくのもそのためだろう。実はそこに、イエス・キリストが自らのいのちを献げられた現場があった。その中で教会が絶えず問われることといえば「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。今朝、要としたいのは「全世界」という言葉。「荒野の誘惑」の箇所では、イエス・キリストを試みようと、その耳元で「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と誘惑者がささやく。イエス・キリストは、いのちの事柄という重大事を世の諸々の力の中では語らない。むしろ十字架という滅びと審判、そして自らの復活という出来事を経て示される神の支配という救済史のただ中に、弟子を立たせようとし、教会を立たせようと呼びかける。救いの歴史のただ中に置かれるわたしたちのいのちのありよう。それはあらゆる特性を持っていたとしても、どのような排除も差別も憎しみの対象にも対象にもならない。今朝の箇所は実に短いながら、キリストの苦難と十字架での死、そして復活と昇天、そして再臨と終末という福音書ならではの歴史の意味づけがなされている。「神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とは誰かといえば、それは教会の歴史の中で福音書の物語を、その場に居合わせた者として味わい、聴き、涙した人々であり、それはわたしたちも含んでいる。
十字架刑とは本来ならば遺体の弔いすら許されず、人を初めからなかったものにする処刑法。しかし福音書では、イエス・キリストの亡骸を受けとめた人、墓に葬った人、その死を嘆き悲しんだ人々がいた。その悲しみは復活の光の中でやがて癒されていく。救いの歴史のただ中に置かれているわたしたちの歩み。わたしたちのいのち。何の変哲もないように思える日常の中にあって、実はわたしたちのいのちはどのような悲しみの中にあったとしても、いのちの光のただ中に置かれているのだということを、受難節の礼拝で確かめたい。