泉北ニュータウン教会礼拝説教「主のしもべ・キリストに従って」
稲山聖修牧師
聖書箇所:『ローマの信徒への手紙』6章17~23節
『マルコによる福音書』2章13~17節
誡めに携わる人々がこだわったのは汚れ・清めという判断基準。特に遠ざけられていたのは、亡骸に触れるというわざ。神に仕える者は亡骸に触れてはならず、もし触れた場合には所定の誡めにしたがってその汚れが清められるまで幕屋で神に仕えるわざを止めなければならない。こうした考え方が民の置かれた状況や聖書の文脈から離れた場合、誡めは人が利用し他者を裁く結果を招いた。旧約聖書の『民数記』で臨在の幕屋に奉仕するレビ人もその例外ではない。「善きサマリア人」の譬え話の中で祭司やレビ人は瀕死の旅人を忌まわしいものとして遠ざけるだけだった。
今朝から礼拝で用いる聖書の文書を『創世記』から『マルコによる福音書』に変更した。それはこの福音書が、四福音書の中では最も初期に成立し、パウロとはまた違った仕方で、キリストのわざを物語としてまとめているところに理由がある。その筆は旧約聖書の民が、汚れとして遠ざけていた十字架での死と葬り、そして復活までにいたる。死を汚れとして遠ざけた人々とは対照的だ。
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」。湖のほとりに暮らす人々。それは福音書の中では「オクロス」と呼ばれる。その時代の権力者・富裕層からは人の数には入らなかった人々だ。中でも今日の箇所で鮮やかなのは、アルファイの子レビとの関わり。祭司職に仕えるレビ人と名が同じであるにも拘らず、彼が座っているのは収税所。多くの税金がユダヤの民には課せられたが、その税には徴税人の収入も上乗せされた。また徴税人には税を取り立てた人々の情報が全て握られる。その情報はローマ帝国の支配を堅固にする。そのような職業柄から軽蔑されていた徴税人が「レビ」と名乗るのは皮肉もよいところ。けれどもだからこそ、主イエスの「わたしに従いなさい」との声が響く。収税所に留まっていたレビに新しい人生の扉が開き、風が吹く。
実は「わたしに従いなさい」と声をかけられたのはレビ一人だけではなかった。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと、レビの家に設けられた食卓に同席していた。「実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」。「実に大勢の人」。この集まりはこの時代のアウトサイダーでもある。しかし不思議なことに、アウトサイダーを遠ざけていたファリサイ派の律法学者が、次第にその群れに引き寄せられていく。人々から敬われていたはずの律法学者は、不思議にもその外におりながら、交わりに連なろうとしているのだ。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」。問いかけと主イエスへの遠回しの非難の入り混じった言葉だ。主イエスは答えるには「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。モーセの誡めには不適格とされた人々に主イエスは声をかけ、病人であると表現した。これは私たちにも向けられている。パウロは『ローマの信徒への手紙』で「かつて自分の五体の汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と記す。パウロがこのように語ることができるのは、律法学者が遠ざけた汚れの象徴としての死の意味を根底から変えてしまった救い主との出会いがある。「罪人の交わり」の中心には「裁き」という病を抱えた私たちの思惑を超えた、神の恵みの勝利がある。私たちは赦された罪人の交わりに立つ。その中心にはキリストが立ち給う。自分自身も他人をも責めなかったキリストの声を身体に響かせて、春の風吹くこの月を始めたい。