2018年2月25日日曜日

2018年2月25日「主のしもべ・キリストに従って」 稲山聖修牧師

2018年2月25日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「主のしもべ・キリストに従って」
『ローマの信徒への手紙』6章15~16節
『創世記』24章62~67節
稲山聖修牧師

 イサクの許嫁探しの物語は、無名の人物を軸にする。長年アブラハムに仕えた僕。この人は墓石にすら名前が刻まれない奴隷である。私たちを支えてくれた人の繋がりとは、そのようなものかもしれない。偶然では片づけられない、名も知らない人々の交わりの中で私たちはいのちを与えられている。今朝の説教はこの僕の献身的な支えの中でのイサクとリベカの出会いの段。舞台となるネゲブ地方は荒れ地が広がる砂漠であり、空気が乾燥し見晴らしがよい。日も暮れ暗くなるところ、イサクが目をあげて眺めると遠くにらくだの一隊が映る。「目をあげて眺める」というわざはリベカの態度と見事に対応している。リベカは問う。「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰か」。「あの方がわたしの主人です」と答えるアブラハムの僕。この答えには僕の機転がある。僕の主人はアブラハムである。けれどもイサクだと答えることで、リベカは花嫁衣装を身にまとう。無名の僕はこれまでの経緯についてイサクに報告した後、創世記の中には二度と姿を現さない。しかしその働きは次の言葉に見事に結実している。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」。僕は誰からもその人としては感謝されない。しかし神のわざの器として大いに用いられたのだ。
 
受難節第二週の主日礼拝。苦しみを担ったのは主の僕となった神の子イエス・キリストだ。新約聖書という窓を通せば救い主が何者かが分かるが、イエスが世におられたとき、神の僕が誰であるかはわずかな人を除いて隠されていた。その事実に気づき、開かれた人はいわばその時代のアウトサイダーであり、名もない人々だ。その点では私たちも同じだ。名もない人々の苦しみや痛みを見極めるのは、その立場に身を置いた救い主。イエスが救い主であると示されるまでには、その示しとともに神との深いつながりが生まれる。
パウロは語る。「あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷になって義にいたるか、どちらかなのです」。パウロは決断を求めながらも、同時に、罪に仕える奴隷である他ない私たちに代わって処刑されていったあの神の奴隷での役目を担ったアブラハムの神の僕である主・イエスキリストの恵みを語る。わが身の事ばかりに気が向かいがちな季節ではある。そんなとき、一週間を振り返り十字架を思い起こせば、神さまが備えた出会いがなかったか、心身が深く癒されたときはなかったかが示され、開かれるのではないか。イエス・キリストは、確かにそこにおられたのだ。パウロは別の箇所で、さらに具体的に語る。「あなたがたはキリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(『フィリピの信徒への手紙1章29節』)。教会の扉の内外を問わず、世の苦しみや思い悩みを、イエス・キリストは見抜いてくださっている。そして名もない神の僕として、いのちを失うまでの苦難を担いながら、私たちを今あるこの道へと導いてくださった。受難のキリストへの感謝の思いとともにこの季節を歩みたいと願う。