2018年2月11日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「ともに生きる生活」
『ローマの信徒への手紙』6章12~14節
『創世記』24章55節~61節
稲山聖修牧師
教会が名誉欲や商業主義にただ流され、世の力に迎合する余り、世の第一線で働く人からでさえ顔をしかめられるような集いに劣化する場合がある。そのような課題は、すでに初代教会の歴史始まってからキリストの名による集いにつきまとっていた。パウロによればわたしたちの身体とは、キリストにあって死者の中から生き返った者の身体だ。その身体は義のための道具として神に献げられている。わたしたちはもれなく神に献げられた者として、神との交わりの中にすでにおかれており、それはイエス・キリストが十字架の死によって明らかにされた。この十字架の贖いにより、アダムに見られる神との断絶が救い主の贖いによって回復され、さらに神の国へと向け、世に遣わされたわたしたちの交わりという仕方で、単なる断絶の回復以上の力を授かって広がっていく。
その最も具体的なガイドラインが、『マタイによる福音書』5章から7節までの「山上の説教」だ。これはパウロのいうところの「聖化」の道筋でもある。「幸いである」という言葉の下、この世の尺度にあっては排除されていく人々が父なる神の祝福を受ける。これら祝福された人々の眼差しはもれなく、教えを語る主イエスと隣人に向けられる。これは山上の説教がわたしたちに神の国の扉を指し示しているでもある。この箇所に記された教えに、他人との比較や批判なしに、少しでも身に引き寄せようとするわざこそ、聖書がわたしたちに求めていることだ。父なる神の前にあって「できる」ということは「すべき」であることでもある。わたしたちには神の国の希望を受けとめることが、もれなく「できる」。神の支配の訪れはすでに足もとに及んでいるからだ。「ともに生きる生活」とは、神の支配を先取りした、神に祝福された交わりの只中の暮しであるからこそ、主イエスは『ルカによる福音書』9章の終わりで語る。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない」。
『創世記』では年老いた無名の僕の申し出に戸惑う家族の肖像が描かれる。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」の姿はイスラエルの民の当事者意識と不可分であった。「リベカの兄と母は、『娘をもうしばらく、十日ほど、わたしたちの手もとに置いて、それから行かせるようにしたいのです』と頼んだ」。家族はリベカの旅立ちを祝福できず戸惑ってしまうのだ。この戸惑いは決して他人事ではない。この状況を踏まえて僕は語る。「わたしを、お引きとめにならないでください。この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから。わたしを帰らせてください。主人のところへ参ります」。娘を手放したくない母と兄はリベカを呼び「お前はこの人と一緒に行くのか」と尋ねる。リベカの答えは実にシンプルだ。「はい、参ります」。リベカもまた、主イエスの神の国の譬えに重ねるならば、その道標示す方角へ、アブラハムの僕に従い、自ら颯爽とらくだに乗って旅立った。新しい「ともに生きる生活」のために。
わたしたちが神の国にいたる道を前にして戸惑うならば、主イエスはわたしたちにこう語りかけるにちがいない。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。そしてわたしたちをじっと見つめて「それは人間にできることではないが、神には何でもできる」と語るだろう。恵みの下に活かされるわたしたちには、神が創造された世の人とともに生きる道が拓かれている。