2018年3月11日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「弟子の恐れとともに」
『ローマの信徒への手紙』7章1~3節
『マルコによる福音書』9章2~13節
稲山聖修牧師
今朝の福音書は、福音書そのものと旧約聖書との関わり、さらには主イエス御自身と旧約聖書との関わりを鮮やかに描く。それだけでなく、十字架にいたる主イエスの苦難の道と葬り、そして復活の出来事が暗示されている。主イエスは何の備えもない弟子たちを従えて山に登る。足を滑らせたら終わりという限界状況の中で弟子たちはキリストに黙々と従う。先の見えない道程の中、主イエス以外に希望がないからこそ、ペトロとヤコブとヨハネの間には、同じ危機をともにした者にしか授かれないつながりが生まれる。このつながりが生じる中で山上の変容が起きる。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」。主イエスは「いつもの」イエスではない。主イエスは輝く白い衣を身にまとう。この様子を書き手は「どんなさらし職人の腕も及ばぬほど」と人々の暮しに関連づける。白い衣は日常着ではなかった。むしろ主イエスの葬りにあたり身体に巻きつけられた亜麻布を思い出させる。主イエスの変容は救い主の姿を公に示した復活の主の姿であり、旧約聖書にあるイスラエルの民の解放者モーセと、権力者と一人戦った預言者エリヤの二人と語り合うという、活きいきした関わりを示してもいる。
聖書に記された悲しみの処方箋は、その悲しみを主なる神にぶつけ、そして聖書の言葉に絶えず問い尋ねることだ。聖書をいわばフィルターにし、悲しみを濾過して神の御心に適った悲しみへと変える。モーセもエリヤも人々の憎悪の矢面に立ち、悲しみを受けとめた。しかし、痛みを知らない弟子たちには、モーセとエリヤ、主イエスの交わりの意味が開かれない。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの交わりは、復活の出来事を前に怖じ惑う他ない人々の交わりでもある。そのうろたえの中、雲の中から声がしたと聖書は記す。これはモーセやエリヤの物語では主なる神がイスラエルの民に臨む表現だ。「これはわたしの愛する子、これに聴け」。この声は主イエスと読み手だけでなく弟子たちにも響く。それが誰の声であるかは分からないまま。
この山上の出来事を、主イエスは弟子たちに「死者の中からの復活まで」隠せと語る。この語りかけによって弟子の視界にようやく復活の出来事が示される。この箇所には、神の支配の完成に伴う罪人の痛みを、キリストご自身が担ってくださるとの終末論的展望がある。
ところで『ローマの信徒への手紙』の今朝の箇所で誡めについて語るとき、パウロは既婚した女性と寡婦を譬えに用いる。イスラエルの民の中では寡婦のほうが、一般には低い立場、憐れまれる立場に置かれていたはずだ。しかしパウロは寡婦という、先の見えない場に置かれた女性に重ねて、救い主による祝福と自由を説く。救い主が開いた恵みは、生と死の、人には越えられない限界をつつみこむ。この希望が、七年前にわたしたちに人の力の無力さと傲慢さ、そして醜悪さとともに、新たな時代の節目ともなった出来事の後を生きるわたしたちをもつつみこんでいる。先の見えない日々の中、かの大災害と関連して生命を失った人々は、主のみもとで、今なおわたしたちにいのちの尊さを伝えようとしている。その言葉をわたしたちは、聖書に記された主イエス・キリストを通して、視界を遮る密雲の中で聞こうとしている。弟子たちの恐れとともに、わたしたちは神が用いる言葉を授かり、主にある新しい展望を授かる。主がともにいてくださるなら、どのような見通しのない世界でもわたしたちは進んでいける。ときには這ってでも、ときには杖をつきながらでも。誰かのお世話になってでも。それほど力強く、主イエスが背中を押してくださるからだ。