泉北ニュータウン教会礼拝説教「わたしの飲む杯があなたに飲めるか」
『ローマの信徒への手紙』7章4~6節
『マルコによる福音書』10章35~45節
稲山聖修牧師
新約聖書の世界では生活スタイルの変化は急激であった。ローマ帝国が地中海を囲む世界を統一したことにより、次々と暮しが統制されたからだ。貨幣の統一、道路の統一、税の徴収の統一など限りがない。その中で物流や移動が活発になる。それは人々を旧来のしきたりから解放する反面、ローマ帝国が人々を強固に抑圧する事態を招く。その最中に主イエスは湖畔の漁師に声をかけたのであった。今日の箇所では、弟子たちの間で起きた争いが記される。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」。二人の願いはあまりにも通俗的だ。主イエスははっきり伝える。「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない」。神なき上昇志向に憑依されたこの二人の弟子に、主イエスは別の道を備えようとする。それは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」との問い。
その気があれば、二人は主イエスに「それは一体どういう意味ですか」と問えたはずであった。しかし二人の返答はあまりにも軽率だ。「できます」。モーセが五回も神の召出しを断り続けたのとは対照的な姿だ。愚かな二人に主イエスは語る。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかしわたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは定められた人々に許されるのだ」。主イエスは神の支配の観点から二人にメッセージを突きつける。救い主は、神の支配が完成する終末に至るまでの間、暫定的にアブラハムの神からその役目を備えられているに過ぎず、神ご自身が世に臨むその時には、全ての権限を神に委ねる。イエス・キリストもまた、救い主の隣に誰が座るのかを明らかにはされず、沈黙する。これが神の支配の秘義である。
ヤコブとヨハネの高ぶりから、弟子の交わりは損なわれていく。いがみ合う弟子を呼び寄せて主イエスは語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかしあなたがたの間ではそうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためでなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」。主イエスが伝えた教会の秩序には、この世の秩序と画すべき一線がある。偉い人たちが権力を振るう組織で、命じられる通りに行動する者は物事を主体的に考える必要はない。転じてこれは、上の指示であれば、その内容が何であれ従っていれば問題はない。責任回避も容易にできる。いつしか人々は思考停止に陥り、私利私欲と私怨の虜となる。これは誰もが陥る機会にあふれた「凡庸な悪」と呼ぶに相応しい。この悪に気づいた者がなすべきことは、主の僕として「仕える者となる」ことだと主イエスは語る。僕の働きは、自分のためではなく、誰かのためにとの思いが前提となる。だからこそキリストは「他人は救ったのに、自分は救えない」との罵声を十字架上で浴びたのだ。主イエスが味わった杯とはこれだ。そしてキリストの死と復活の姿に現されたのが聖霊の働きだ。パウロの語る「霊に従う新しい生き方」との言葉が、マルコによる福音書では実に活きいきとした主イエスと弟子たちとの語らいに表現されている。「凡庸な悪」からの目覚めの時は近い。主に仕えるわざの尊さを知るわたしたちだからこそ。