聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節、創世記21章9~18節
本日の旧約聖書の箇所では、アブラハムが神から授けられた知恵によってどのように道を開き、そして神自らがハガルの前途に橋を架けたかを知る箇所。サラがイサクを授かったことにより、ハガルとイシュマエルの立場は脅かされる。イシュマエルとイサクとの無邪気な遊びでさえサラには悩みの種だ。ささいなこどものやりとりでさえ、サラには族長継承の問題を左右する出来事に映る。「あの女とあの子を追い出せ。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではない」。ハガルをアブラハムに与えたのにも関わらず、正妻サラのエゴが剝き出しになる。問題はもはや話し合いで解決する域を超えていた。苦しみ悩むアブラハムは神から「すべてサラが言うことに聞き従いなさい」との言葉を授かる。アブラハムは自ら担う苦しみ悩みや思い煩いを全て神に委ねる。 この委ねにより、アブラハムはハガルやイシュマエルを手にかけるという、最悪の状況を避けることができた。「生きるに値しないいのち」などどこにもない。
その結果、ハガルはベエル・シェバの荒れ野をさまよい、皮袋の水がなくなると、彼女はこどもを一本の灌木の下に寝かせ「わたしは死ぬのを見るのは忍びない」と矢の届くほど離れ、弱り果てたイシュマエルを向いて座り、声を上げて泣く。この無力さの中で神の御使いはハガルに呼びかける。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕しっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。またもや「神は聞いた」というイシュマエルの名前の真意が再び確かめられ、アブラハムから出た人々としてその名が刻まれる。この物語をパウロもまたその父と母から繰り返し聴き、その中でイエス・キリストが救い主であるとの確信を得た。
今朝の新約聖書では「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者に立証されて、神の義が示されました」とある。パウロのいう「律法」とは、613にわたるユダヤ教の誡めではなくて、かつてモーセ五書と呼ばれた、旧約聖書の最初の文書である『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『申命記』『民数記』の五冊を示す。ユダヤ教で言う『トーラー』だ。この中には勿論ハガルとイシュマエルの物語も収められる。続く「預言者」も個々の預言者を指すのではなく、この預言者の物語を収めた『ネビイーム』を示す。つまり『トーラー』と『ネビイーム』という、パウロの時代の聖書が示されているのである。アブラハムの時代には勿論、このような書物は一切ない。『トーラー』『ネビイーム』の文言の頑なな墨守は救いの前提にはならない。けれども『トーラー』と『ネビイーム』が証しする通り、神の義が示されたのである。それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」である。
高度経済成長期には深い闇も伴っていた事実を私たちは知っている。障がい者への風当たりは今よりも厳しく、孤児院に暮らすこどもたちへの社会の目は冷たかった。ショービジネスの世界に活路を見出した人々の中には、日本国籍を持たない人もいた。父母の国籍が異なる家のこどもは「合いの子」と蔑まれもした。そのなかで行政に先んじてさまざまな福祉分野や教育の場を設け、世にある垣根を突破する交わりを育み、その受け皿となったのは教会だった。本日は長寿感謝の日礼拝。齢80歳を数える兄弟姉妹のあゆみを通して証しされた神の恵みに感謝する日。激動の世にある教会の開拓期に携わったのが長寿を迎えられた兄弟姉妹である。私たちはこの事実を感謝の念とともに神の御前に立ちつつ、深く心に刻むのである。