聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章1~8節、創世記19章36~38節
非常事態に事柄の真価が問われる。ロトはそのソドムへの神の審判を前にしてツォアル(小さい)との名の町に急ぐ中、ロトの伴侶は後ろを振り向く。神の避難指示を冗談であると聞き流した婿たちも硫黄の火に包まれた。この非常事態の中でツォアルに入らず洞窟に暮らすこととなったロトとその娘は、心に深手を負っただろう。そのさまは30節~35節に記される愚かな、まことに愚かな振る舞いとして露わにされる。その結果、二人の娘にはモアブとアンモンというこどもを授かる。イスラエルの誡めが適応されるなら間違いなく石打刑だ。確かにアンモンは、この後、ダビデ王の時代にいたるまでイスラエルの民を苛む異邦人となる。モアブ人はアンモン同様イスラエルを苛みながらも、やがてダビデの祖先ルツに繋がる系譜に数えられ、主イエスの父ヨセフまでの流れに立つ子として覚えられていく。大人がどれほど堕落しようと、授かる子どもには決して罪はない。子どもたちには罪はない。もし人の思い、すなわち「はかりごと」によって救い主の訪れが実現するならば、この子たちはイスラエルの歴史から排除されていたに相違ない。キリストなしに救いがないのは、他ならないイスラエルの民であり、アブラハムの一族もまた例外ではない。
この記事を前提しながら「ユダヤ人の優れた点は何か」「割礼の利益とは何か」と問いかけつつパウロは語る。第一に、ユダヤ人は神の言葉を委ねられたという事実がある。次に彼らの中で不実な者がいても神の誠実さは無にされない。ソドムの街にアブラハムの神は救いの言葉を投げかけ続けた。「人は全て偽りもの」でありながらも「神は真実である」。だからこそ神の真実は人の偽りに勝り、時に神の恵みは人の目には怒りと映る場合もある。だからこそ「善が生じるために悪をしよう」との考えを罰せられないはずがないとパウロは語る。
「善が生じるために悪をしよう」との言葉は、現代の私たちの心の中にも深く入り込んでいる。例えば「必要悪」との言葉。何かを犠牲にして生き残った者が思考を停止する言い訳によく用いられる。あるいは「目的は手段を正当化する」との言葉。かつては暴力革命を正当化するため、今は医療や福祉、東日本・九州・北海道の被災地を無視した経済発展を正当化するために用いられる。
私たちは目的と手段を転倒させてはならない。神の恵みを輝かせるためには、誰一人犠牲にされてはならない。パウロは『ローマの信徒への手紙』12章1節~2節で語る。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の身体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。注目すべきは続く2節での言葉「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」である。
もし東日本大震災の直後、全国の諸教会が「この世に倣い」、ロトのようにためらっていたとしたら、教会も保育園も保護者もこどもたちも取り返しのつかない、深い傷を負っただろう。地震・津波・水害・原発事故。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。この言葉を私たちは9月を始めるにあたり噛みしめていきたいと切に願う。世にはびこる人の「はかりごと」を打ち砕かれるために、自らを十字架で犠牲にされた主イエス・キリストは、自らの栄光を世に現す。その時を待ち望みながら新しい月に歩みを踏み出そう。