2017年9月10日日曜日

2017年9月10日「役に立たない者だからこそ神の恵みの器となる」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章9~22節、創世記21章1~8節

「津久井やまゆり園」で19人の知的障がいとの特性をもつ方々が殺害され、26人が重軽傷を受けた事件から一年余り。容疑者が同年2月、衆議院議長に犯行予告をしたのにも拘わらず政府は「やまゆり園」の警護を怠った。政治家に対する殺害予告とは異なる判断基準が機能したと考えずにはおれない。無自覚の全体主義。選別と排除。20世紀の負の歴史でもあるナチズムの特質は極端な成果主義にある。福祉政策が経済政策の邪魔になると見たナチは、障がい者の例外のない安楽死政策を打出すことで多くの国民の支持を得た。「生きるに値しないいのち」を人が定める恐ろしさと、神への冒涜がある。
本日の旧約聖書ではアブラハムの伴侶サラにいのちが授かり、わが子に「イサク(笑い)」と名づける場面が描かれる。族長物語の中でも喜び溢れる場面ではあるが、私たちはサラが不妊であるがゆえに味わった惨めさを忘れられない。子宝に恵まれるという神の祝福が人の世の成果主義と混同されているとの見方も可能だ。族長物語の世界にあっても「役立つかどうか」との世の尺度の問題は克服されていないのではないか。
一方福音書では、主イエスがこの荒んだ尺度を軽々と飛び越える場面が窺える。例えば『マルコによる福音書』の5章に記された、長血を患う女性。12年間出血が止まらず、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても具合は悪くなる一方。とても子を授かるような身体ではない。彼女は社会から切り離され、治療の名のもとに搾取の対象にすらなり、経済的に追い詰められる状態が日常化している。この名もない女性が福音書で描かれる理由には、この苦しみの中でこそ味わえなかったイエス・キリストとの出会いと慰めが語り継がれなければならないという福音書記者と教会の決断があった。イエス・キリストとの関わりを軸にすることで、生き方の多様性が、ギスギスした功利主義から解放されて神さまからの恵みの器として受け入れられる。その根拠を人間の願望ではなく、神と人との救いの約束だからと聖書は書き記す。
パウロは『ローマの信徒への手紙』で「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と読者に問い、そして答える。「全くありません」。なぜなら、「ユダヤ人もギリシア人もみな、罪の下にあるから」。「罪」を意味するギリシア語「ハマルティア」には、人は誰かの助けなしには必ず的外れなわざ、的外れな態度、的外れな理解に及ぶという幅の広さがある。自分の判断には狂いはないという一念は時として深く心を傷つける。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」。パウロは自分も含めて記す。そしてこの道筋を貫いて、パウロはユダヤ教徒とそれ以外の者である異邦人の垣根を取り払う。歪んだ選民思想はそこにはない。
聖書の言葉を問い訪ねていく中で、私たちは「役立つかどうか」という尺度だけで人を見るその愚かさに気づかされる。また「役立つかどうか」との考えで傷つけられた人が、実は神の栄光を現わしていたことに深く頭を下げざるを得ない。己の痛みを誰よりも知る者を、主イエス・キリストは涙と微笑みをもって癒し給う。だからこそ私たちは、キリストが教会の頭であり交わりの基であると確信する。かくして世が荒むほどに、教会に連なる交わりは世の光として輝きを増すのである。