聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章27~31節、創世記22章1~8節
「鳥居」と名乗る女性の短歌集『キリンの子』が爆発的に売れている。『サラダ記念日』とは異なり、鳥居が詠むのは地べたを這う者が陽
だまりに手を伸ばすような願い。「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」。この歌集の購読者の生活状況に思いを馳せる。核家族のあり方が極限まで達し、「ワンオペ育児」が増える。その中で虐待に至るというケースが後を絶たない。これに経済格差が追い討ちをかける。鳥居は児童養護施設で虐待を受け精神科病棟への入院とホームレスを経験し、義務教育も受けずに育った。新聞と辞書が短歌の世界を開いた。
創世記の物語はそのような社会の谷間に暮らす人にどのように映るのか。「あなたの子孫を浜の砂粒のようにする」との祝福を通して授けられたのはイサクただ一人。この一人息子との関わりをめぐり、神はアブラハムに命じる。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
この不条理な命令にアブラハムは黙々と従う。黙々と薪を割るアブラハム。アブラハムは狂信者ではなかった。幾たびも彼の部族は切羽詰まった中で授けられたその知恵に助けられたことだろう。しかし神はイサクを名指しにしていることから、アブラハムには身代わりになる余地は残っていない。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる』」この文を読むと、アブラハムは薪を割りながらも一縷の望みを抱いているようでもある。それは神がそのようなことをなさるはずがないとの信頼だ。絶望的な命令を前にしてなおもアブラハムは神の命令に対して鎬を削るような葛藤を伴う信頼を抱く。「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった」。何も知らない息子は父に「わたしのお父さん」と呼びかける。アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答える。ただ一人のこどもを「わたしの子よ」と呼ぶ。この「わたしの子」という言葉に表わされる親子関係が根底から新たにされる時が近づく。アブラハムには隠されているその時。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものにする小羊はどこにいるのですか」とのイサクの問い。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。アブラハムは事態の瀬戸際まで神に信頼を置く。神が割って入る親子の関係にいたるまでアブラが刷新される。濃密な親子関係が陥りがちな共依存と独占の関係。イサクはアブラハムに独占されなかった。それが今後の展開となる。
パウロはモーセ五書を踏まえ、人の誇りはどこにあるのかと問う。主なる神の命令を前にしてアブラハムが誇りなど顧みなかった様子は今朝の物語からも読み取れる。続いてパウロが問うのは信仰の法則。これはイエス・キリストを通して示された神の恵みをわが身に重ねるわざである。それは必ずしもモーセ五書を拠り所とはしない異邦人にも開かれている。憂いに佇む私たちの前にはイエス・キリストによって開かれた道がある。その道は世界へと広がり、神の平和を告げ知らせるために用いられていく。経済的な問題や、家族の問題によって生まれた分断の壁をも超えていく。絶望の谷間を照らす光の中で、あらゆる世代の人々とのつながりを大切にしていきたい。『キリンの子』に心動かされる人々にこそ届く交わりを、私たちは神の光の中で祈り探し求める。