聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章1~8節、創世記24章1~8節、詩編130編1~8節
ハロウィンの祭が賑やかな中、教会が忘れてはいけないのは、宗教改革記念日。ルターのカトリック教会への問題提起が契機とされる。ルターだけが英雄視されるならば、その記念も歪む。例えば100年前。宗教改革400年記念は、第一次世界大戦の最中に行われ、祭はドイツの戦勝祈願にも似たという。420年記念は、ゲルマン民族主義の熱狂的な高揚の中で行われ、歪んだ選民思想の中人々は茶色の服を着て右腕を高く上げた。今日、世界教会の時代にあって宗教改革を覚えて何をすべきかと言えば、ルターの英雄視ではなくて、ルターが民衆の言葉に訳した聖書を繰り返し味わいつつ、神の恵みに応える姿勢を確かめることだろう。
本日の旧約聖書の箇所は『創世記』24章1節から8節。アブラハムも齢を重ね、老人となった。登場するのはアブラハムの他に、長く歩みをともにした僕(しもべ)。齢を重ねながら、長い人生を神の光の中、己の影と向き合いながらも歩んできた二人。アブラハムは名を記されない僕に語りかける。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように」。この誓いには一族の存亡がかかった大事としてイサクの結婚が描かれる。この「許嫁探しの物語」は決して安易な結論を求めない。即ち、「今住んでいるカナンの娘からとるのではない」。カナンの地域にあるような、魅惑的な男性らしさや女性らしさはアブラハムの眼中にはない。何が大切なのか。それはアブラハムの主への深い信頼の言葉から明らかだ。「天の神である主は、お前の行く手に御使いを遣わす」。これがアブラハムの確信だ。老いてなおアブラハムの眼差しは過去にではなく、イサクとの関わりの中で未来に開かれている。これこそイエス・キリストにあって異邦人である私たちにも開かれた、恵みに応えるキリスト者の姿でもある。
本日の『ローマの信徒への手紙』の箇所は有名な箇所だ。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。信仰とはルターの言葉によればキリストへの信頼と深く関わる。個人の所有物ではない。その信頼の中で次の言葉が記される。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。私たちが味わう苦難はただの苦難ではない。イエス・キリストへの信頼の中にあっての苦難だ。狼狽。落涙。閉じこもり。不信や猜疑が私たちを襲う。けれども、イエス・キリストへの信頼が全てに勝る。絶望の只中に置かれ、無力感にうちひしがれていたとしたとしても、イエス・キリストによって開かれた神の愛は、私たちの抱える苦難、すなわち不信、狼狽、猜疑、妬み、疑い、そして絶望を完膚なきまでに打ち砕く。
詩編130編には、罪人の苦しみが癒され、変容される姿が記される。この詩編は異邦人ルターが繰り返し味わい、神の恵みを信頼する罪人の姿を心に刻んだ古代イスラエルの民の詩でもある。今日宗教改革という言葉がなお意味をもつならば、神の言葉への深い信頼なしにはあり得ない。改革は神の国の訪れの時まで終わらない。「私たちの『内なる人』は日々新たにされていく」(『コリントの信徒への手紙Ⅱ.4章16節』)。待ちつつ、仰ぎつつ、望みつつ、キリストの恵みに包まれて、私たちは神の光の中を歩むのだ!