2017年11月5日日曜日

2017年11月5日「あなたたちは神の力を知らない」稲山聖修牧師

聖書箇所:ルカによる福音書20章27~40節

福音書の書き手は、主イエスとユダヤ教徒との対話に細心の注意を払う。本日の聖書では、サドカイ派とファリサイ派の人々と、主イエスの復活をめぐる問答が記される。『ルカによる福音書』では「復活があることを否定するサドカイ派の人々」とわざわざ記される。サドカイ派は自分たちの用いる聖書に復活否定の根拠を求める。この人々の用いる聖書はモーセ五書のみであり、モーセの葬りをもって『申命記』が幕を下ろすからだ。サドカイ派の人々は死が七度にもわたって襲い、一人遺された女性について語る。女性は伴侶を失う度にその弟と結婚する。これはイエスの時代に伴侶を亡くした者を支えるしくみではあったが、同時にこの例話は、主イエスの教えとわざへの挑戦でもあった。
 主イエスは「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることもなく嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と答える。モーセの戒めは、いまだ救われてはいないわたしたちの世でのみ初めて意味を持つ。神の新しい世界では七度も嫁ぐ必要はない。イエスは、わたしたちが天使に等しい者になる。天使のようになると語る。サドカイ派は、天の世界をも、御使いたちをも認めない。
 さらにイエスはサドカイ派に暗に語る。「あなたたちは、自分たちの聖書すら知らない」。サドカイ派も重んじる『出エジプト記』の記事では、モーセと出会った神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗る。この物語が「柴」の箇所と呼ばれる。
 アブラハムの神は、活ける関わりの中でそのわざをなし、人々をその名によって呼びかけ、苦しみから解放する。モーセ五書はモーセの葬りで終わるのではなく、アブラハムの神について語っていると、主イエスは指摘する。主イエスはわたしたちに死を見つめよとは語らない。頭をあげよと呼びかけている。アブラハムの神は、一人の名前をもつ人間と自らをひとたび結びつけたならば、二度とその関わりを廃棄しないからだ。
 永眠者の名簿には85名の名が記載される。数ではなく名である。この人たちも神のみもとにあって生きている。この方々とわたしたちが出会う場こそ主イエスの伝え・証しした神の国の希望だ。神の国はわたしたちの世界を包み込む。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからだ。神の国の訪れを先取りしているのが主イエスの世界であり、その教えについて頷くファリサイ派の姿を観る。そこにはまことに巨大な広がりをもつメッセージが響く。「全ての人は、神によって生きているからである」。主イエスの語る神は、死によって絶たれたと思われる大切な人々との関わりにも、いのちの息を吹き込む。恐怖と悲しみのどん底にある死を、主イエスは十字架の上で受けとめてくださった。
イエス・キリストを信頼し、わたしたちが寄り添うとき、神のみもとにあって安らう人々もまた、わたしたちに寄り添ってくださる。主の導きのもと生涯を全うされた方々。この方々は主のもとで今なお活きいきとわたしたちと関わっている。「あなたがたは神の力を知らない」と主イエスがわたしたちに問うならば、その問いは「わたしを信頼しなさい」との神の愛に満ちた思いが込められている。主イエスに悲しみを委ねる時、わたしたちは次世代に何を遺すべきかと希望に満ちた問いかけを主イエスに発しているのに気づかされる。