2017年11月19日日曜日

2017年11月19日「いのちの水を求める声に応えて」稲山聖修牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章9~11節、創世記24章9~14節

 年老いた僕は贈物であるラクダ十頭と主人アブラハムから託された宝物を携えての旅を始めた。この僕は、ラクダを町外れの井戸の傍らに休ませて祈ったと創世記に記される。この祈りは「主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。ラクダにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」。この祈りには、老いし身が、やがて交わりから排除されるのも世の倣いだとの覚悟と、その倣いに流されず、一杯のいのちの水を注ぐところ女性こそ、次世代を担う伴侶に相応しいとの願いが祈りとなる。僕とリベカとの出会いが始まる。
泉のほとりで起きた出会いと交わり。それは明らかに神の祝福のもとにある。この出会いの物語は『ヨハネによる福音書』の「サマリアの女性」の記事に重ねられる。主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っていた。長旅を続けていたアブラハムの僕のように、である。そこにサマリアの女性が水を汲みに来た。主イエスは「水を飲ませてください」と願う。注目すべきは女性がこの申し出に驚くところだ。それはなぜか。「ユダヤ人とサマリア人とは交際しなかったから」と福音書は記す。ユダヤ人とサマリア人の両者はまるで不倶戴天の敵同士のようだ。女性はイエスに応じる。「主よ、あなたはくむ者をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、そのこどもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。主イエスは語る。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちにいたる水が湧き出る」。リベカはイサクと縁戚にあり、かつ異性を知らない女性。他方、サマリアの女性は、5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではないと主イエスに指摘される。しかしこの女性は、主イエスとの交わりに加えられ、救い主の訪れをサマリア人に伝える役割を授かり、その器として用いられるのだ。
使徒パウロは『ローマの信徒への手紙』5章9節で「それで今や」と語り始める。「わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」。空回りする自己本位の正義感は、いつしか交わりの破壊と死をもたらす。絶望の渦巻きにあるわたしたちを、主イエスは自らの血によって清めてくださった。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのですから、和解させて頂いた今は、御子のいのちによって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」。イエス・キリストの贖いを通した神との関わりを隣人との関わりに重ねるならば、わたしたちは赦しが人のわざによらず、神の恵みのみによることを体感する。
本日は教会のバザー。働き手の不足を憂うる声も聞こえたが、主は必ず時に適った担い手を備え給う。誰がリベカをアブラハムの僕と出会わせたのか。誰がサマリアに、アブラハムの神の祝福が現臨すると考えたというのか。イエス・キリストから目をそらさなければ、必ず道は開かれる。バザーはその追体験ともなる教会のわざ。いのちの泉は神の祝福のもと、全ての人に備えられている。