聖書箇所:マタイによる福音書3章13~17節
洗礼者ヨハネの活躍の場は荒れ野。それは人による統治のしくみの保護外での暮らしを意味する。ヨハネは街に入らず集落の外で教えを宣べ伝える。大勢の人々、ファリサイ派やサドカイ派までがヨハネのもとに来た。ファリサイ派は旧約聖書に通じた学者。他方サドカイ派はエルサレムの神殿の大祭司を始めとした祭儀を行い、ユダヤの政を司る者でもあった。当時のユダヤはローマ帝国の属州であり、その身分の保証にはローマ帝国の官僚の思惑が働く。洗礼者ヨハネのもとに人々が集まり敢えて悔い改めの洗礼を受けずにおれなかった事情。それは古代ユダヤ教そのものの世俗化だ。
洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい身を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と語る。これは政治と混然一体化したユダヤ教主流派への批判だ。
洗礼者ヨハネと深く関わりのあったユダヤ教のグループとして徹底してこの世の尺度を拒んだ群れがある。それはエッセネ派と呼ばれる群れ。エッセネ派は荒れ野に群れを作り沐浴をして身体を清める。ローマ帝国の後ろ盾あってのエルサレムの神殿への無言の抵抗がある。この群れとの関わりが推し量れるヨハネは、救い主の訪れについて語る。「わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない」。ヨハネは自らが救い主を指し示す一本の指以上の者ではないと自覚する。
「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼。救い主である主イエスには本来妥当しないはず。だからヨハネはそれを思いとどまらせようとする。ヨハネにはこれはあり得ない出来事だ。しかし主イエスは語る。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです」。主イエスのヨハネからの洗礼の出来事は、クリスマスと並ぶ神の恵みを現わす。それは神が遣わされた救い主が世俗化されたユダヤ教に連なる者としての意思表明に示される。街中に入ろうとしない洗礼者ヨハネに対し主イエスは人の設けた垣根を越えて俗世の泥をかぶり証しを立てる。神の愛が世に示されるために。主なる神が仰せられた「わたしの愛する子」。御子イエス・キリストの言葉に耳を傾けその足跡を辿る一週間にしたい。