2017年1月15日日曜日

2017年1月15日「神の愛のネットワーク」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書4章18~25節

 弟子となるペトロとアンデレの生業が漁師であるとの物語の展開。ガリラヤ湖はローマ帝国の水路として用いられ、人々の暮らしを満たす場ではなかった。ルカによる福音書で、主イエスがシモン・ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語りかけた際に、シモンは網を洗いながら「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答える。漁師という生業の過酷さ。主イエスが向かった生活の場とは日毎の暮しが闘いであった場でもある。
 主イエスの弟子になる。それはキリストに従う態度と証しを伴う。そのわざは世との関わりとの否定からではなく、垂直に被造物と関わり、わたしたちを愛する創造主なる神を仰ぐところから始まる。神の姿は見えないからこそ、神の御子として上から、そして「ともにいます神」として関わるキリストを判断基準の根底に据えなければならない。この事柄が抜け落ちるならば、教会のあらゆる奉仕からは喜びが失われる。
 キリストに従う態度とわざは実に豊かな多様性を秘めている。今朝の聖書箇所の後半、新約聖書の6頁冒頭では、イエス・キリストが自由に道を行き巡る姿が活きいきと記される。多彩な地中海世界が凝縮されたような街々で苦しみ悶えていた人々はただ癒されるだけでなく、イエスに「従った」。イエス・キリストを中心にした円をモデルにした交わりがこのとき生まれる。弟子とは誰かとの問いはガリラヤの漁師を超えていく。イエス・キリストを中心にした交わりに由来しながら、さらに世のための教会共同体の原型が構想される。キリストに従う態度とわざとは、祝福を受けた者が、その祝福に世のために応えていく姿を伴う。それはかたちとしては特定の枠にははまらない。政治的神奉仕という言葉。これは世にある教会が神讃美の中で人々にいかに仕えるかを問う。イエス・キリストの癒しのわざは、世にある神讃美が否定されるどころか、主御自ら率先して行ったことを示す。だから奉仕にあたりわたしたちは己を顧みる前に、イエス・キリストを仰ぐのだ。キリストを仰ぐならば「わたしの信仰」は「わたしたちの信仰」へと変えられる。なぜなら神の愛のネットワークは、世に困窮の闇が深まるほどに広まるからだ。信仰はアクセサリーやステイタスではなく、教会のわざは人の世のきまぐれを判断基準とはしない。教会のわざを考えるにあたり中心に立つのは誰なのかを忘れてはいけないのだ。