聖書箇所:マタイによる福音書4章12~17節
洗礼者ヨハネ逮捕の知らせを聞いた主イエスは「ガリラヤへ退かれた」とあるように後追いをせず、早まりはしなかった。進退を見極める主イエスの態度はヨハネによる福音書によると一層鮮明になる。その根底には2章23節以降の口語訳で「しかし、イエス御自身は彼らに御自分をお任せにはならなかった」とある通りだ。濃密な間柄の中で描かれる洗礼者ヨハネと主イエスだが、実は各々授けられた役割を存分に知り尽くした上で各々授けられた役目に基づいて道を歩む。主イエスは命を狙われ、一人あることを恐れず、ガリラヤに退かれ、そして故郷ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。遠回りの道筋の中で、実はその時代のユダヤの中心であったエルサレムからは異邦人の街・辺境として退けられ、見捨てられていた街。中心ではなく周辺にある街に主イエスは暫く働きの拠点を置く。
何らかの理由で主イエスが宣教活動の途上滞在する場は、今後とも何らかの暫定性を帯びる。それは時に弟子たちに覚悟を求める。しかしそれはいつ何があってもその場の危機に対応して神から委託された役目を疎かにはしないことでもある。主イエスが十字架にお架かりになるその先には復活がある。精神主義や熱狂主義に立つ玉砕の道とは無縁だ。
かの国では逃げないことが美徳とされた。逃げることは恥であった。その思い詰めの中で組織に過剰に適応する余り、時や組織の変化に対応できず、無残な最期を迎える話が後を絶たない。主イエスの示す「暫定的なあり方」とは、その只中で肩の力を抜くゆとりをもたらす。深い癒しと慰めとともに。
時代の過渡期との言葉はよく礼拝説教で用いられる。私たちは戸惑う。何に向かっての過渡期なのか。それは未来が予測不可能だからではない。これからいくつもの重い課題に直面すると分っていながら、そのために何をすればよいのか分らないからだ。しかし主イエスは語る。洗礼者ヨハネとは異なる場所で、しかしヨハネからバトンを引き継ぎなら、救い主として律法全体を完成させるために。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
時代の波に神の希望は決して揺るがない。時代の波は常に暫定的だ。その波に主イエスのわざも柔軟に対応するがゆえに暫定的である。主イエスの暫定性は柔軟性につながり、私たちを自由にする。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。こどもや大人、若きも老いも、囚われの身にあっても、私たちは真理を知るゆえに自由だ。イエス・キリストの賜る自由な恵みに何ら不自由しないから。