2017年1月1日日曜日

2017年1月1日「新たに始まる旅路」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書2章13~23節

東方からやってきた三人の博士達の帰国の後、夢で危機を天使から知らされたヨセフが家族を連れてエジプトへ逃れる時を同じくして、ヘロデ王によるベツレヘムの幼児虐殺が起き、その治世が終わった後にヨセフとマリア、そしてイエスがナザレに暮しの拠点を置くとの物語の構成。折角喜びに満ちたクリスマスの光の中で、なぜこのような残酷なお話が書き記されているのか私たちは首をかしげる。けれども福音書は、救い主の降誕の祝いが物忌にあたる出来事を決して排除せず、むしろ救い主の降誕の希望の光のもとに世の悲しみが暴露されるしくみに立つ。私たちはここに福音書のリアリズムを看取したい。福音書で描かれる「主の天使」のわざは、辞書でいう「使い・使者」の役割を超えている。
主の天使は受胎告知の場面ではマリアを祝福する。そして慄くヨセフの不安を取り除き、みどり子の名前まで定める。主の天使が翼をもつものとして描かれた背後には、神のわざである聖霊の働きが示されているようにも思える。その意味では翼をもつ天使の姿は決して侮ることができない姿でもある。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい」。ヨセフに目覚めよと促す夢はまどろみとは異質。「後ろを振り返らず、エジプトに逃れよ。私が告げるまで、そこに留まれ。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている」。王としての権力を確立したはずのヘロデ王には「ユダヤ人の王とは自分のことだ」との意識があったはずだ。幼子と血縁なき父ヨセフはマリアともども懸命に抜け道を走りぬく。ヘロデ王が権力欲しさに伴侶と一族に次々と手にかけた姿とは対照的だ。血のつながりあればこそ募る嫉妬と恐怖もある。幼児虐殺の描写には、救い主キリストの顕れの中で問われるありのままの世の姿がある。
後の箇所で主イエスが語った山上の垂訓は神の国にある世の変貌を示す。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」。幼子を殺められた親を慰めるのは誰なのか。それは他ならないイエス・キリストである。世界には生まれながらにして困窮に喘ぐ人は数知れない。そしてかつて一億総中流との言葉を誇ったこの国でさえ例外ではない。一億総格差社会。その中で未来を拓き、クリスマスの無名の家族を導いた神の力に身を委ねつつ、その使信を究極的な判断基準としたい。みつばさのかげで安らう時を、新たな年も主は備えてくださる。