聖書箇所:マルコによる福音書10章17~22節
「富める若者」として知られる物語。実のところ富んでいるか否かとの問題は相対的であり、キリストに従うか否かという絶対的な問いが重要。青年の抱えた課題は「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」という主イエスが証しした道に気づかなかった点。そして単なる律法学者の教師と見なし、イエスに「善い先生」と呼びかける他なかった点。優秀な律法学者になるには多くの資産が必要だった。主イエスに従えなかったのはその富が神とは無縁だったからかもしれない。弟子たちは全てを捨てて主に従った。貧しくなること自体に意味はない。キリストに従った結果がどうであれ、神の国の喜びの証人として従うことに尊さがある。この服従への勇気が青年にはなかった。
バルメン宣言第5項の冒頭には、ペトロの手紙Ⅰ.2章17節が記される。「神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。皇帝という地上の富と権力を委ねられた者よりも、先に畏怖しなければならない方がいる。それは主なる神である。究極的にいのちの采配を握るお方は皇帝ではなく神。究極は神であり皇帝は究極以前の事柄。この前提に立ち、次の文章が記される。「国家は、教会もその中にある、未だ救われない世にあって、人間の洞察と能力の量りに従って暴力と威嚇の行使をなしつつ、法と平和のために配慮するとの課題を神の定めによって与えられていることを、聖書はわれわれに語る」。バルメン宣言は絶対平和主義には立たない。あくまで「暴力と威嚇」は、法を遵守し平和のために用いられるとの条件においてのみ赦される。続く文章は「教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する」。次には「教会は、神の国を、また神の戒めと義を思い出し、その結果、統治する者と、統治される者との責任を思い出す」。統治者を神格化するのではなく、神の国と戒めと義によって制約した上で、統治する者とされる者に責任を想起させるのが教会の役目。「教会は、一切のものを支える御言葉の力に信頼し、服従する」。教会が国家に従うのは、国家が神の国と戒めと義と関わる場合に限られる。
神に創造され、主イエスに導かれ、聖霊に活かされる私たちは、いのちが人の造り上げた政府より必ず上位に立つことを平和裏に承認する。「生きるに値しないいのち」を決める資格など誰にもないのだ。