聖書箇所:マタイによる福音書28章11~20節
イエス・キリストの復活の書き手は、同時に抹殺を試みた人々に生じた慄きと混乱を記す。さらに復活を疑う弟子たちもいたと述べる。その描写が却って主の復活を強烈に印象づける。御使いが主イエスの復活を告げるとともに、急いでガリラヤへ行けと命ぜられた女性は、懸命の思いで託された務めを果たす。その最中、手練手管を用いた祭司長たちは番兵からの報告に愕然とする。祭司長と長老は兵士に口止め料を握らせるが、このわざ自体が祭司長や長老には真実が宿っていないことを証しする。さらには夜中にイエスの亡骸が盗まれたと吹聴するが、実のところ弟子は概して小心者であり、そのような振る舞いに及ぶはずもない。
世の権力の破れを明らかにしつつ、物語の書き手は、その眼差しをガリラヤに赴いた弟子に向ける。興味深いことに復活を疑う弟子たちも、イエスがお示しになった山へと登っているのが愛らしい。そして物語は疑いによって耕され深められる主イエスとの絆を描く。世の権力は主イエスの前には取るに足らない。だからこそ、「すべての民をわたしの弟子にせよ」との、あらゆる不正な力に対する勝利者キリストの言葉が記される。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
ところで本日の聖書とともに、テモテへの手紙2章9節「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」との言葉を受けて、バルメン宣言の最後のテーゼは語る。「教会の自由の基礎でもある教会への委託は、キリストが天に昇られた後に、キリストの代理として、キリストご自身の御言葉とみわざに説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、全ての人に伝えるということである。教会が、人間的な自立性において、主の御言葉とみわざを、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめるというような誤った教えを、我々は退ける」。
戦後71年の平和聖日。かの時代の闇は決して私たちの日常からは消え去ってはいない。だからこそ私たちは世の光としての輝きを一層増していく。何者にもつながれない神の言葉は、次世代への最大遺物として主の平和を備える。どのような惨い仕方で眠りについた人も終末には目覚め私たちと食卓をともにする。これが私たちの希望だ。