聖書箇所:エフェソの信徒への手紙 4章7~16節
バルメン宣言第三項は次のように語る。「キリスト教会は、イエス・キリストが、御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今も働いておられる兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、その信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただその慰めと導きとによってだけ、その再臨を待ち望みつつ、生きていること、生きたいと願っていることを証ししなければならない」。
私たちが一歩この世に踏み出せば、排除の論理がまかり通る。その論理の背景には、人を人物ではなく人材としてのみ見なす理解がある。他方で聖書の世界では、排除の論理とは真逆の尺度を突きつける箇所にぶつかる。マタイによる福音書20章のぶどう園の労働者のたとえがそうだ。雇用時間に拘わらず手当は1デナリオン。ぶどう園の主人の力は絶対だが、主人は雇用した労働者を友と呼ぶ。このような就労環境は実際にはあるはずもなく、礼拝に集う私たちでさえおとぎ話のように聞こえる。それは私たちもまた排除を前提にしなければ物事を整理できない罪人だからだ。
このぶどう園の労働者のたとえを重んじた教会が執り行うサクラメントは決して能力や実績に応じて意味づけられはしない。究極のサクラメントである主イエス・キリストは、罪人の私たちをひとつの食卓に招く。そこには命令ではなく奉仕と喜びがある。いかなる世にあっても神の愛に根ざした真理は揺らぐことはない。
だからこそ、教会がそのメッセージやその秩序の形を、キリストと切り離されたところで、人の群れしか見えない眼差しで、その好むところに任せて良いとか、その時々に支配的な世の見方を巡る確信は誤った教えであるから退けられなければならない。教会が払うべき配慮は、傷みや悲しみを分かち合う祈りであり、時流に阿ねることではない。エフェソの信徒への手紙は記す。「キリストにより、身体全体は、あらゆる節々が補う合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に応じて働いて身体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです」。神の愛によって教会は育まれる。その確信に立てば、世の何者も恐れる必要はないのだ。