2016年7月24日日曜日

2016年7月24日「奉仕は神を讃えるわざ」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書20章20~28節

 今朝の聖書の箇所はイエスの弟子たちの上昇志向を描く。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください」とのゼベダイの母。主イエスの答えは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。このやり取りによって弟子の間に軋みと不協和音が響く。為政者はこの情念を用いて組織を造りあげる。強引さのない者や遠回りの道や険しい道を選ぶ者は嘲笑される。しかし主イエスは語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。「仕える者」とはδιακονος、奉仕を意味するディアコニアとの関わりで理解される言葉であり、「僕」とはδουλος、奴隷という意味。支配と権力からは対極にある在り方。それがキリストに従う道。
 バルメン宣言第四条項には「教会にさまざまな職位があるということは、ある人々が他の人々を支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行うための根拠である。教会が、この奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者をもったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかというような誤った教えをわれわれは退ける」とある。教会は支配の道具にはならない。あくまでも教会は他者に仕え、世を立ち返らせるために世に仕える。
 神への奉仕は神礼拝であり神讃美のわざである。私たちには各々世に活かされた者としての賜物がある。その賜物を用いて主を証しすることが、その場その場におけるところの奉仕であり、讃美であり、喜びである。老若性別・生まれながらの特性は問われない。奉仕は神を讃えるわざ。仕えること、僕となること。キリストに従う道がここに開かれている。