聖書箇所:ヨハネによる福音書10章7~18節
ヨハネによる福音書10章で興味深いのは、主イエスが「わたしは良い羊飼いである」と語る前、羊たちは盗人や強盗の言うことを聞かなかったと、羊の鋭敏かつ繊細な特性について言及してするところである。これは一般に聞く家畜としての羊の特性とは異なる。困難な世にあってキリストに従い続けた群れの姿があった。
今朝の聖書箇所はナチズムに抗する教会の結集軸となったバルメン宣言の第一条項「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき、神の唯一の御言葉である」の基となる聖句。この箇所で羊は神の言葉・主キリストを聞き分ける。今日でこそナチスとは悪の権化のように描かれるが「国家社会主義」との呼称を通すと、頼りがいある政党だと錯覚する。大不況の時代に当時は画期的であった公共事業を続々と興し、国の経済を立て直した業績が宣伝される。劣等感に苛まれる者ほど受容され・肯定された思いから国家のために励む。教会のこどもにもヒトラーユーゲントへの入団が要求される。マスメディアでは英雄のインタビューが花を添える。この「全てがうまく行っている」との陶酔感とは無縁のまま、冷静に行く末を見極めようとする羊がいた。
羊が眠らなかったのは、時代に抗う特別な能力のせいでない。それは「わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている」という一点につきる。羊には実に多彩な特性がある。「わたしは羊のために命を捨てる」。羊に自己責任を要求する盗人や強盗とは異なり、よい羊飼いは身を挺してこの羊を守る。
初代教会の人々が仰ぎ見たのはよき羊飼い主イエス・キリストの姿であり、神なき権力と繁栄を背景に立つローマ皇帝ではなかった。「だれも、わたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。地上の国家の法を超えた力をもつ、主イエスの掟は羊たちのいのちを育むための掟。教会がその宣教の源として、神の唯一の言葉の他に、他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として受け入れられるとか、認めなければならないというような教えを退ける態度を示したその宣言の響きは、今なお止むことを知らない。