2016年6月5日日曜日

2016年6月5日「受けるより与える方が幸い」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録28~38節

本日の聖書の箇所は、使徒言行録20章16節には「パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである」を背景とする。
しかし17節ではパウロはミレトスからエフェソの教会の長老を呼び寄せている。パウロはエフェソに前向きな思いで立ち寄らなかったのではなく、エフェソへ出入りを禁じられたのではなかったか。当初三ケ月の予定が二年に及んだ滞在。この間パウロは危険を冒しながら教会を導いた。しかし待ち受けていたのはエフェソへの出入禁止。交わりを育みながらも結局は立ち去らざるを得ないパウロの涙の理由。エフェソで向き合ったのは、人々の好意や歓迎の思いというよりは敵意や憎しみや辱めが殆ど。けれどもパウロは一度も神を呪わず、境遇を嘆かなかった。人の脆さを見つめては、陰府にまで降ってまで人を追いかけてやまない主イエスの愛を証し続けた。
パウロは働きの果実を見ないまま別れを告げなくてはならない。このような別れを私たちも人生の節目で味わう。天に見送るだけでなく、大切な人を主にお委ねしなければならない時がくる。
本日の聖書箇所には「長老たち」という言葉が出てくる。初代教会は一定の組織として働き得る力を授かっていることが分かる。組織の成長あればこそ楽観的な将来を語らない。迫害よりも恐ろしいとされる根腐れの時代をパウロは予告する。内部分裂と言い争いの中に、主に活かされる喜びの声を聞くことは難しい。だから「わたしが三年間、あなたがた一人ひとりに夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」。という涙ながらのパウロの慟哭が響く。その中で「受けるよりも与える方が幸いである」との主イエスの教えに根ざし、弱い者に仕えることを呼びかける。与えるとは献げること。それはとりもなおさず分かち合うことを意味する。わたしたちも各々に託された賜物を献げている。嵐を前にして教会がなすべきことは、イエス・キリストに服従する姿勢を大切にして、お互いに仕え合い、支え合うことだとパウロは語る。やがて来る実りの時を待ちながら、パウロはエフェソを後にした。人生の旅
路は一期一会。だからこそ互いに仕え合う働きを大切にしたい。