2016年6月26日日曜日

2016年6月26日「恐れてはならない」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録22章22~29節

 我が身顧みずエルサレムへ赴くパウロの真意とは。それは献金を届けるため。エルサレムの教会は財政的には困窮の身にあった。パウロは決して苦境にあるエルサレムの教会を侮らなかった。本日の聖書の箇所の導入としては、パウロが主の兄弟ヤコブとやりとりをする21章17節以降が相応しい。
 この箇所を丹念に味わうとヤコブの申し出はいささかちぐはぐだ。パウロが異邦人伝道について報告すれば、ヤコブは大勢のユダヤ人キリスト者が、未だに戒律主義の軛から解放されていないと明言する。これはパウロの立場とは相容れない。更には「あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して『こどもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えている」と困惑する。
 かつて律法学者であったパウロには、戒めを否定することなど論外。パウロが異邦人に向けて語った内容はコリントの手紙Ⅰ.17章19節では「割礼の有無が問題ではなく、大切なのは神の掟を守ること」、ガラテヤの信徒への手紙6章15節では「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新たに創造されることです」が軸。誤解を受けたパウロの献金はエルサレムの教会に拒否されたのではと感じさせる記事が続く。
 パウロの弁明を聞き及んだ人々は、憎しみも露わにいのちを奪おうと殺到する。そこで描かれるのがローマ帝国の千人隊長。千人隊長は高級将校としての采配を振るう立場にある。パウロに鞭が振り下ろされようとしたその時、その口は「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってよいのですか」と伝える。追いつめられたこのとき、パウロは彼ならではの神からの授かりものを初めて世に示す。この市民権は人間性を欠いた処遇に対する楯となった。千人隊長は畏怖しながら「わたしは多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と伝える。
 人生の方向性が問われる時。千人隊長は自分の保身と名声のために市民権を得た。彼に頭を下げる人はいただろうが、それは肩書への敬意にすぎない。他方パウロは身を顧みずエルサレムの教会のために献金を届けに来た。その祈りは使徒ヤコブの抱える課題を浮き彫りにした。キリストご自身が市民権も得ぬまま救い主としてのわざを通して明らかにした力。聖霊がパウロの口を開いた。今も働くその力に押され、私たちは各々の場へと遣わされる。