聖書箇所:使徒言行録21章7~16節
パウロのエルサレム訪問は、危険な賭けでもあった。引き留めようとする人々の群れ。その声にパウロは動じない。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか」。尋常でない引き留めの理由は、ユダヤ教徒がパウロの手足を縛り、弟子達はおろか、パウロ自らも思いの及ばないところへと連れて行ってしまうとの預言があったからだ。
この物語と、ヨハネによる福音書21章での主イエスとペトロの対話が重なる。食事の後、ペトロに三度「私を愛するか」と問うて『イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた』。
ペトロやパウロの立てた人生最期の証しをめぐり、聖書は沈黙する。けれどもユダヤ教徒に帯で手足を縛られ、異邦人に引き渡されると語られたパウロの道筋、そして他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれると主イエスに示されたペトロの歩みは、キリストへの服従を問いかける。教会の中心に立つのは誰か。この問いを前に、目指す事柄は自己実現に終わらないことに気づく。礼拝を通じて世に響く主イエスの声。「あなたは私を愛するか!」。主イエスがペトロに問いかけた二度の問いかけとは異なり、三度目の問いかけで初めて主はペトロと同じ「フィレオー」という言葉へと謙る。これは主イエスが近づくに連れて、ペトロはますます主に従わざるを得ないことを同時に暗示する。それは人の望む道が壊れて初めて露わになる。その道は、隣人に仕え、その交わりに神から委託された責任を分かち合いつつ向き合うわざである。その旅路の最終責任は、神がお引受けくださる。だからこそパウロは危機の中に飛び込んでいく。諦めずに賭けていくパウロは攻めの姿勢を貫く。
まことの人の姿とは、神の備えた可能性に最期まで賭ける態度を伴うと今朝の聖書からは読み取れる。人生航路の果てにあるのは自己責任ではない。主が責任を担い、道を備え給う。