2016年5月29日日曜日

2016年5月29日「青年エウティコの目覚め」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録20章7~12節

 夢で授かった御使いの言葉を通してヨセフはマリアと結ばれ、ヘロデ王の追っ手からエジプトへと逃れることができたように、聖書の物語では眠りは大きな意味を持つ。反対に、感覚の麻痺やタイミングを見抜く時を逸した具合に及んだとき、物語の書き手は人の課題を浮き彫りにする。モーセに逆らうヘブライ人の奴隷や、エリヤに日和見的な態度をとるイスラエルの民。いずれにしても朦朧とした居眠りに呆けた人の姿を的確に表わしている。
 パウロはコリントの信徒への手紙二10章で記す。「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さをもって、あなたがたに願います。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています」。
 パウロは緻密な聖書の解釈に基づいて救い主のわざ、そして父なる神の愛を、異邦人を相手に伝えていた。青年エウティコはパウロの話が長々と続いたのでひどく眠気を催し居眠りをし、三階から落ちた。パウロが抱きかかえて言うには「騒ぐな。まだ生きている」。癒しのわざを行うわけでもなく、パウロは元の部屋で夜明けまで長い間話し続けたとある。使徒言行録でのパウロの振る舞いはつれなく見えるが、コリントの信徒への手紙の記事と併せるならばエウティコの居眠りをめぐるドラマで教会が問われる事柄が浮き彫りにされる。エウティコは神との関わりを絶たれてはいない。救い主を十字架におかけになった神の愛は、全ての人の垣根を越えていき、十字架にあるイエス・キリストの苦悶は、傷つけられた全ての人の苦しみを癒し、復活の出来事は死の力、暗闇の力に終止符を打ち、それは被造物全てに及ぶ。その力はローマ帝国の要塞の壁でさえ打ち壊す。まどろみの中でなおも目覚めた人々の立てた証しが聖書に記されているのだ。