聖書箇所:使徒言行録19章8~22節
聖霊降臨の出来事とは教会の誕生と刷新の出来事でもある。そして出来事一つひとつが一回限りの異なる仕方で、某かの試練を伴って現れる。今朝の聖書の箇所で陸路からエフェソに入ったパウロは三か月間会堂で非難のうちに神の国を説き、ティラノの講堂で二年間論じた。その結果アジア州に住む者は誰もが主の言葉を聞くことになった。当初は三ヶ月の予定に過ぎなかったパウロの滞在が二年も長引いたのである。不安定であった初代教会は分裂の可能性、外部から来た者からの攪乱、あるいは土地の倣いが持ち込まれた結果生じる様々な秩序の乱れと向き合っていた。
例えば「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった」とある。これは長血を患う女性の物語に重なる、深い関係性が生まれる中での癒しである。病人が他者との深い関わりの中で癒される物語は福音書でもよく見られる通り。しかし本日のパウロの癒しの物語はあらぬ方向へと進む。13節では、各地を巡り歩いているユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試しに主イエスの名を唱え「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という者がいたという。祈祷師という言葉は英語のエクソシストに通じる、除霊を行う人々を示す。この者たちはユダヤ人の祭司の七人の息子であった。この醜聞を暴くのはパウロではなくて、パウロに追い出される悪霊であった。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」。
悪霊に取りつかれた人々が福音書に記される場合、真っ先にイエスの正体を見抜く者として描かれる。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。悪霊に取りつかれたと名指された人は、その悲惨さを深く知る。最も弱いところに佇む者こそ世のまことの姿を知り抜いている。悪霊に取りつかれた人々が求めたのは神の国と神の義である。神の国と神の義を求めた群れの姿は、神の国と神の義から最も遠ざけられている私たち自身に重なる。その目覚めは聖霊の助けなしには起こらない。キリストを仰ぎ、聖霊降臨の出来事をともに祝おう。