聖書箇所:使徒言行録18章1~11節
パウロがコリントの街で出会った夫妻アキラとプリスキラ。三人を結ぶ職業スケノポイオイはテント造り、あるいはユダヤ教徒が礼拝を献げる際に用いるショール作りとも訳せる。額に汗する中での交わりを通し、パウロは安息日に会堂で論じ合っていた。
三人の労働は機械化された条件の下では行われない。三人が身体を動かす仕事に従事する描写は、一般に労働は美徳をしなかったギリシア思想やローマの市民層には特異に映ったに違いない。労働は奴隷に任せる伝統が主流だったからだ。陰ながら流した汗がパウロの霊肉併せての力となり、語る言葉を強めた。
聖書では人は必ず働く姿とともに描かれた。神にかたどって創造された人は、エデンの園を耕す役割を与えられる。エデンの園はリゾート地ではなく、労働が人間本来のありように適った喜びとなる場であった。主なる神は天地創造のわざを自らの働きとした。その似姿が人。反対に今の世では、生きがいをもって臨める職業は限られつつある。過労死(Karoshi)は世界共通語。人間性を疎外する労働問題は未だに解決を見ない。人間性を歪ませる労働は交わりから孤独、充実感から病へと人を追い詰める。
パウロにはテント作りよりも「メシアはイエスである」との証しが重要だった。ともに汗を流す堅い交わりに支えられているからこそ、パウロは困難に毅然と向き合えた。パウロは幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」との主の言葉を聴いた。
日毎の働きに伴う事柄を「究極以前の事柄」と理解した神学者がいる。「究極以前の事柄」とは、出来不出来が私たちの命を必ずしも左右しない。究極以前の事柄は、イエス・キリストの十字架と復活に示された「究極的な事柄」と関わって初めて意味をもつ。その関わりの確認の場として礼拝は肝となる。
職業から交わりが失われるのと並行して現われた働きのあり方。例えばボランティア。聖書の文脈で理解し直すならば奉仕とも呼べる。奉仕なしにいのちを育むことは困難であり、神の似姿としての人が本来の姿を回復する場は稀だ。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。神からの授かった命は、交わりの中で養われる。徒に思い詰めず、各々の場で流す汗の意味を今朝も見極めたい。