聖書箇所:使徒言行録17章1‐9節
「新しい葡萄酒を古い革袋に入れる者などはいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、葡萄酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」(マタイによる福音書9章14-17節)。
新年度を始めるに当たりこの聖句を楯に強引な組織刷新を正当化するのは問題がある。律法の成就者として敵を愛し、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下られたという歩みの果てにある救い主の復活の出来事こそ私たちの喜び。革袋の中では酵母菌が時をかけて雑菌と戦い勝利した暁に発酵が生じる。
命を賭したパウロとシラスの使信はこれに重なる出来事をもたらす。ギリシアの街テサロニケ。使徒言行録17章2節でパウロは粘り強く証しを立て、三週間もこの街に滞在する。しかし多くの回心と引き換えに待っていたのは暴動であった。パウロとシラスに宿を供したヤソンの家を襲い「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」と騒ぎ立てる。けれども最も動揺していたのは「イエスがローマ皇帝を凌ぐ別の王だ」と騒いだ人々ではなかったか。十字架刑の主イエスの頭上には「ユダヤ人の王」と刻まれた。本日の箇所では皇帝の勅令に背いたとの言葉が付加される。暴動を起こした人々でさえ主イエスがその時代の最高権力者をも凌ぐ統治する力を備えた救い主であると認めたのである。
この混乱の当事者ともなったパウロは、テサロニケの信徒への手紙一で「ちょうど母親がそのこどもを大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んであたえたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛するものとなったからです」と記す。わが子のために母親が、自らのいのちをなげうつ姿に、パウロは自らの思いを重ねていた。
新たに腹を括った時には様々な物事が観えてくる。観たくない物事が気に障ることもある。しかし復活の光の中でその物事に向き合うならば、またとない宝を見つけるかもしれない。人間のわざには限界がある。それは問題の諸元となる課題についても言える。私たちは神なき繁栄や権力を無効とされる、主イエス・キリストを王とする群れなのだ。