2023年11月16日木曜日

2023年 11月19日(日) 礼拝 説教

  ー降誕前第6主日礼拝ー


時間:10時30分~



説教=「すべての人にいのちのパンを」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章34~40節
(新約聖書  175頁).

讃美=420,205,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 『旧約聖書』の神は怒りの神、『新約聖書』の神は愛の神との誤解からわたしたちが自由にされて久しくなります。『旧約聖書』におきましても神は自らお造りになったいのちに対して「死んではならない」と絶えず語りかけ、『創世記』におきましてはその約束を族長に対して貫徹されようとします。そして次なる姿は「虐げられた者とともにいる神」という姿であり、それはイサクに先立って族長アブラハムの側室ハガルに授けた息子イシュマエルの名に明らかです。イシュマエルとは「神は聞かれる」との意味です。神が耳を傾け続けたのは正室サライの訴えよりも、もともとは奴隷身分であったハガルの悩みでした。さらに神は正室サラとの争いに敗れて親子ともども荒れ地へと流刑になったイシュマエルの消え入りそうな泣声とハガルの嘆きを聞き入れ、イシュマエルの将来を祝福いたします。この神の態度は『創世記』に続く『出エジプト記』でも変わらず、自らをはっきりと「奴隷解放の神」としてお示しになり、エジプトでファラオのもと奴隷として消耗されていた60万のイスラエルの民を、モーセを導き手として立て、住まう土地である約束の地カナンへと導き出しました。神は約束の地で国を建てよと語ったのではなくそこに住めと命じます。

 しかしそれでもなお『旧約聖書』で拭い去れないのは神の愛の招きにも拘わらずひたすらその招きと導きに逆らう人の姿です。『旧約聖書』で問われるのは「怒りの神」などではなく、神の慰めと癒しに満ちた恵みに応答できない、絶えず的外れなわざを繰り返していく人の闇の姿です。神の恵みの光に人の罪なる影が絶えず浮かびあがるのが『旧約聖書』の物語の特色であり、イスラエルの民の極めて厳格な現実認識であるといえます。荒れ野に響いたイスラエルの民の声は、束縛から解放してくれた神への讃美よりも、授けられた自由の中で不安に陥り、日々の暮らしを憂いては不平をつぶやき、神の備え給ううずらとマナを授かりながらもエジプトの肉鍋を懐かしがるという体たらくでした。その道筋にあり、奴隷解放のわざを目のあたりにした第一世代はモーセをも含めて旅の途上で生涯を全うするほかありません。このゆえにヨシュアを筆頭とする第二世代がヨルダン川を越えて約束の地へと入っていくのでした。本日の福音書の5章48節で「あなたたちの先祖は荒れ野でパンを食べたが死んでしまった」と語る人の子イエスの言葉は、イスラエルの民の「人間的な、あまりにも人間的な」醜態を指摘しており、それだけに福音書に記された物語の中でイエスの言葉尻を捉えようとしていた律法学者たちにはまことに耳が痛く、思わずその口を封じたくなったことでしょう。

 「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」との言葉は、イエス自らを救い主として宣言され、神の愛が世をつつむそのときのために、イエス・キリストを見て信じる者が皆永遠のいのちを授かり、キリスト自らその完成の日にすべての死者を復活させるのだ、と宣言します。それがイエス・キリストという「神のパン」すなわち「神の愛なる糧」の力です。

 荒れ野で授かった神からの食に養われてきたイスラエルの民は、日が経つに連れ次第にその食に飽き、神を呪うまでになります。まことに残念ですが、ある人には恵みであってもある人にはそのようには味わえないという事態が起こり、その様子が生々しく描かれています。しかし、『ヨハネによる福音書』の書き手には救い主の姿は実体のないぼんやりとしたものではありません。イエス・キリストをいのちの糧とする者は、絶えず新たにされ、その生き方に確信が備えられ、神の愛を証しする者となります。そしてたとえ一人になったとしても、決して孤独には陥らず、その祈りと振る舞いは多くの交わりをもたらしていくのです。『旧約聖書』では、誰もがエリヤになることはありませんでしたし、誰もがモーセにはなり得ませんでした。しかし福音書にあっては、イエス・キリストを仲立ちとした神と人との関わりを、わたしたちは人と人との交わりの中に重ね、その恵みの中で各々が神の愛の証人として活かすことができるのです。それは常に世に生じる対立の壁を越えていきます。

 新型コロナウイルスの流行のピークを越えて待っていたのは、ウクライナ戦争とパレスチナ・ガザ地区でのイスラエル軍による虐殺です。ミサイルは特に病院を「テロリストが潜伏している」場として攻撃します。実際には多くの入院患者や赤ちゃん、こどもたちが犠牲になっている状況に胸を痛めない人はおそらくいません。アル・アハリ病院というキリスト教の教会が運営母体となっていた病院も攻撃され、患者やこどもを含む471名の犠牲者が出たのはまことに痛ましいかぎりです。わたしたちは宮仕えの学者に囲まれ、『聖書』のことばで自らを正当化できる立場、そしてローマ帝国の軍隊によっても支援されたヘロデ王に踏みつけられたベツレヘムに立っています。ヘロデはその親族ごとイエス・キリスト、教会の証人を狙い執拗に追ってきます。しかしそのベツレヘムにイエス・キリストはお生まれになります。わたしたちは後戻りできない世界で、さらなるイエス・キリストとの出会いを味わいます。すべての人に自らをいのちの糧とされたイエス・キリストはわたしたちにも、あのこどもたちの中にもおられます。

2023年11月9日木曜日

2023年 11月12日(日) 礼拝 説教

ー降誕前第7主日礼拝ー
―幼児祝福式礼拝―

時間:10時30分~



説教=「神のこどもたちとともに重ねる年輪」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』9章1~7節
(新約聖書  184頁).

讃美=467,461,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 街を歩いておりますと、様々なお国柄と思われる人が道を行き交っているのに気づかされます。親御さんはイスラーム圏ならそれらしい服装でバギーカーを押しています。お母さんについて歩くお子さんはほぼ日本語で母親に代わって公共交通機関の係員と話をし、親御さんの道中を手伝っています。もはやそれが当たり前の時代のはずですが、今なお強い同調圧力の中に、大人の想定する「こども」とは異なる特性をもつお子さんたちが置かれて、いじめの対象になっているケースもあります。本来ならば加害者に問題があり、被害者が泣き寝入りするのは異常なはずなのに、なぜか加害者である多数側の振る舞いがやむなしとされ、被害者側に問題がある、とされる。これが日本社会の多様性の拡大を阻む典型的な壁です。被害者の申し立てがどれほど正しくても政治力を伴った壁は押し問答だけではなかなか破れません。粘り強く「頑張らなくてはならない」からこその運動が求められたのが20世紀でした。生まれながらにして肌の色が違うという若者に、当たり前のように「虐められましたか」と聴かねばなりません。

 そのような同調圧力の影響から決して自由ではなかったろう、と思われるのが本日の福音書に描かれる人の子イエスの弟子でした。「生まれつき目が見えない」のは、古代のユダヤ社会でその人が社会で抱える生きづらさを示しているのは確かですが、周囲の人々の支援があれば生活上の不便さだけではなく、愛情深い関わりの中であゆむこともできるでしょう。しかし弟子は人の子イエスに次のように語ります。「ラビ(ヘブライ語で先生の意味)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。本当のところ『旧約聖書』『レビ記』には「耳の聞えない者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いたりしてはならない。わたしは主である」とあるにも拘わらず、要は煎じ詰めれば生まれながら目が見えないだけの人に、その人には他の人とは異なる罪があると『律法の書』を充分に読み取らないところで生まれる圧力を示しています。

 人の子イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでも無い。神のわざがこの人に現れるためである」と答え、癒しのわざを行なった結果、その人の目は開かれて見えるようになりました。おそらく他の福音書の場合では物語はこれで完結するのが典型的ですが、『ヨハネによる福音書』ではこのイエスの癒しのわざは、この目の見えない人物の属する社会の病や壁、圧力までも見えるようにしてしまいます。癒しの出来事の後、近所の人、知り合いに始まり、ファリサイ派の律法学者、癒された人の家族にまで圧力が及ぶのです。物語の上では、すでに会堂でイエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決定されていました。ただ病を癒されただけなのに、目を開かれた人は人の子イエスを敵視するファリサイ派の人々から尋問されています。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことをお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行なう人の言うことはお聞きになります。生まれつき目の見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。この答弁に対してファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」と言い返し、彼を外に追い出してしまいます。しかし、この物語で明らかになったのは、癒された目の見えない人は罪のない人であり、むしろ罪深かったのは、目の見えない人を取り囲む極狭い世界からの圧力でした。それでは追い出された人はどうなったというのでしょうか。この一連の出来事をイエス・キリストはお聞きになり、当事者たる癒された人物と出会います。そしてついにイエスは主であると宣言するのです。レッテル張りの中で身動きがとれなくなる狭苦しい場所とは異なる全く新しい世界が、この癒された人の前には広がっています。

 それだけではありません。この一連の出来事は多くの人々の目の前で起きていたと考えられます。隣近所だけの話だけではなく、礼拝堂や村全体を巻き込んでいました。その中にこどもたちの眼差しがなかったと誰がいえるでしょうか。神のこどもたちとともに重ねる年輪があります。雨に降られても、風に吹かれてもその年輪は重ねられます。どのようにおとなが隠そうとしても、いや、隠そうとするほどにこどもたちの眼差しはおとな社会に向けられています。影響もうける反面、そこには反発も生まれます。たった一人の目の見えない人が、ただ生きづらさをイエス・キリストに癒されただけで、村中をたらい回しに去れ、そして最後には家族からも「知らない」と言われながらも、ただイエス・キリストだけがその居場所となっていった様子を、曇りのないその瞳で見つめています。本日は幼児祝福式を執り行います。イエス・キリストを見つめるその瞳がいつまでも曇らないように、いや、年齢を積み重ねることによって、多くの困難を経る中でキリストの備え給う道へと導かれますように、ご高齢の方も、壮年の方も、若者も、齢を問わずに神にこどもたちへの祝福の祈りを献げましょう。こどもたちの眼差しは今もわたしたちに向けられています。

2023年11月4日土曜日

2023年 11月5日(日) 礼拝 説教

     ー降誕前第8主日礼拝 ー

――永眠者記念礼拝――

時間:10時30分~



説教=「闇をてらすいのちのひかり」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』3 章 16~21 節
(新約聖書  167頁).

讃美=488,489,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 有史以来人類は、いわゆる「仮想現実」として「死後の世界」を想定し、世にある暮らしのありようを律するために用いてきました。また逆に、世にある生涯を終えた人の尊厳を保つため、また悲しみを癒すため、弔いを旧石器時代から営んでまいりました。目に見えない、日々の暮らし、とくに食べるというわざにも直には結びつかない、しかし目に見えない大きな力によって人は活かされているとの実感とその表現が生まれたとき、そこに文化が芽生えたと言えます。人をその他の生物と区別するその特徴はといえば、葬儀を執り行うかどうかにかかっています。

 とはいえ『旧約聖書』では、弔いの場面こそ描かれるものの、人が死後どこにいくのかという問いかけについてはまことにシンプルです。人は死んだ後には「陰府」という地下の世界で眠っており、そのような人々が終わりの日にあって神の愛の統治のもとに復活するという理解です。亡くなることによって世にある歴史がリセットされるわけではありませんから、その人が生涯を全うしたその歴史が大切にされ、神もその名を覚えています。時代によって変わりはするものの、この理解は変わりません。

 これが『新約聖書』になりますと、人の子イエスの教えの中には古代ギリシアの考えが入り込み、仮想現実としての死後の世界も混じり合う反面、救い主イエス・キリストがどの民とも、どこまでもわたしたちとともにいてくださるという理解に繋がります。『旧約聖書』では神に約束された救い主の姿はおぼろげでしたが、『新約聖書』ではその姿がわたしたちとともにおられるイエス・キリストとなります。しかもそのイエス・キリストは、世にあってもっとも辛酸を舐めている人々とともにあゆみ、その人々に神の愛を「癒し」という仕方で証しされました。それは病や貧困により社会から排除されている人々との交わりを回復するだけでなく、新しいものにするという道筋でなされました。しかしその結果キリストを待ち受けていたのは人々の称賛ではなくローマ帝国の政治に携わる者、またその利権を貪る者からの濡れ衣による十字架での処刑でした。排除されていた人々に代わってわたしたちの世から捨てられていくその最後の言葉は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」でした。しかしこの言葉さえ、神の愛を見失い、「神などいない」と途方に暮れるだけでなく、生きる道筋を見失いながら悶えるほかなかった人々の呻きと同じであり、救い主キリストはそのような人々さえもその地上の生涯の最後までお見捨てにならなかったという証しに他なりませんでした。これはユダヤ教の理解では決して想定できない救い主の姿です。

 イエス・キリストに示された神の愛はさらに徹底されてまいります。身分が高く本来は死刑囚から遠ざかるはずの議員でありユダヤ教の律法学者であるアリマタヤのヨセフにその亡骸をひきとられ、その時代の倣いに則して横穴式の墓に遺体は安置され、巨大な岩盤でできた蓋で穴は封印されます。人の子として世にある時には神の愛に関わったすべての人々をその愛の渦に巻き込んでいったイエス・キリストは、こうして埋葬されます。しかし救い主としてのわざはこのときにも続きます。死後の世界であるはずの陰府にキリストが降ることにより「仮想現実」としての「死後の世界」とわたしたちの世の垣根が突破されてしまうのです。このような神の愛の実現に殆どの弟子が恐れをなして逃げていく中で、埋葬の三日後、十字架での処刑の最中に傷だらけになったその身体を清めるためにきた女性に、文字通り自らの復活を示し、人々が恐れる死に対する神の愛の勝利を宣言し、四十日にわたり恐れるばかりの弟子たちと交わりをともにして、自らに代わる神の愛の力である聖霊の助けを約束し、世のすべてが神の愛につつまれるとき「また来る」と約束し、「陰府」とは正反対の「天」へとその場を移していかれると『新約聖書』は記します。

 イエス・キリストはわたしたちの眼差しを徹底的にこの世に向けさせます。そこにはこの世で考え出された「仮想現実」を突き破る神の愛の力があります。だからイエス・キリストがともにいるかぎり、わたしたちはいのちあるものが迎える現実としての死を、神に創造されたいのちが全うされるという意味以上に恐れることも、避けようとする必要もありません。なぜならいついかなるときにも、わたしたちにはイエス・キリストがともにおられ、聖霊のわざのもとにおかれているからです。キリストに示された神の愛とは、ともに苦しむ愛、わがはらわたが痛む愛です。その中で生涯を全うされていく方々は、すべての痛みをキリストに委ねられた後には、天に召されているとともに、世に遺された記憶とともにいわば御使いとしてわたしたちの道を示してくださります。「信仰の先達の足跡を思い出す」とは、まさしくこの天の御使いとなった方々、兄弟姉妹に希望を示されている事実を示します。主なる神はそのようにして、わたしたちにあふれるばかりの愛をそそぎ、死に打ち勝つ力をわたしたちに備えてくださいました。だからこそわたしたちは、困難な状況の中にこそ信仰の宝を忘れなかった人々を敬わずにはおれないのです。「真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが明らかになるためである」。これはいのちの勝利を証しする言葉です。

2023年10月27日金曜日

2023年 10月29日(日) 礼拝 説教

   ー降誕前第9主日礼拝 ー

――宗教改革記念日礼拝――

時間:10時30分~



説教=「わたしたちを大事にしてくださる方」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』1 章 1~14 節
(新約聖書  163頁).

讃美=519,Ⅱ 195,542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 9月末から10月にかけて賑わったのは混迷極める国際情勢のみならず、2類から5類へと新型コロナ感染症が再分類された結果に訪れた行楽シーズンを知らせる報道でした。気温は炎暑と呼ばれる夏の暑さから一転して秋の風。一流のブランド品に身を固めた登山客は列をなすかのように富士山を始め、南アルプスや北アルプスへと集まっていきました。

 しかし。ネルシャツとニッカボッカに身を固め、長年の経験値を積んだ上で登山に臨むという登山者の姿はどこへやら。富士山の場合は弾丸登山という言葉すら用いられるありさまで、標高2400メートルの五合目までは自動車で入山できるのをよいことに、登山道がすし詰めのような具合で混雑するという具合。南アルプスや北アルプスの場合はすでに積雪があるのにも拘わらずすでにスケジュールに組んでいると言う理由で危険な稜線を渡り損ねて滑落するという事故も相次ぎました。本当のところ、登山とは山と対話しながらどこまで登れるかとのさじ加減をその都度判断しながらコツコツ進めていくもので、有給休暇は明日までだからと人間本位な都合を持ち込んでしまいますとたちまち大事故に繋がります。装備の質が登山者自身の実力を上回った結果起きた悲劇だとも言えましょう。

 大自然の秘境のもつ前人未踏の怖さを人間が身にしみて感じていた時代に『聖書』は記されました。したがって描かれる山河、または山紫水明とは、現代人が考えるような観光資源とはなり得ません。モーセがホレブの山に「十戒」を授かりに登った折に山は雲に覆われ人々の目から隠された、とありますが、まさしく人々の目から隠されたところで、わたしたちを大切にしてくださる神はそのわざを行なわれます。『出エジプト記』においてイスラエルの民にもっとも必要とされたのは何かと問えば、それは「十戒」に始まる『律法』でした。神に根ざす自由をあゆむために、人々はこの誡めを必要としたのです。神は宣言されます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。神は奴隷解放の神として自らを示すのです。

 それでは『ヨハネによる福音書』で虐げられた者とともに歩む神の愛をわたしたちに示したのは誰でしょうか。他の福音書に較べると本日の福音書は解説や説明が多くなっておりますが、1章の1~5節は『創世記』の「天地創造」を思わせる構成となっています。次いで「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」との記事が始まります。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光であって、世に来てすべての人を照らすのである」。光の証人である洗礼者ヨハネが描かれます。そしてついには「言は、自分の民のところへ来たが、受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。『ヨハネによる福音書』では「神の言葉には名前がある」と記します。名前を持つ以上、そこには関わる人々と「名を呼び合う交わり」が生じます。『律法の書』は「福音の養育係」に留まります。しかし「名前のある神の言」とは明らかに書き記された言葉とは異質です。まさしく本来は相容れない間柄である神と人との間を執りなす生きた神の言であり、それはイエス・キリストであると暗示されます。ではキリストはどのようにわたしたちの世に来られた、というのでしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この箇所でいうところの「宿る」とは、遊牧民が荒れ地に天幕を張るような具合で宿られた様子を示しています。一箇所への定住ができず、絶えず移動を余儀なくされる、『聖書』の世界では最も弱い者とされた難民に近い人々が強い風や砂漠の暑さ寒さをしのぐために建てられる天幕。荒れ地に張られる天幕。その天幕が「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というわずか一行に凝縮されています。そのような過酷な暮らしの中で遊牧民、『創世記』の中では族長たちの姿に重なる人々が是が非でも守らなくてはならない掟があります。それは「旅人をもてなす」という掟です。アブラハムを始めとした族長時代の人々の暮らしは、互いの身の安全を保障するために、初対面の人であったとしても必ず「旅人をもてなして」いたのです。相手をもてなすその振舞いは、確かに相手を大切にするためのわざでした。この「大切にする」という態度が、やがて神の愛の本質を示す表現へと膨らんでまいります。

 明治初期に日本人が手にした『聖書』の言葉のうち宣教師は「神の愛」を「神のご大切」と訳したと申します。道には行き倒れの人がおり、刑場では晒しものになった遺体がある、混乱した幕末・維新の世の中で「愛の福音書」と呼ばれた『ヨハネによる福音書』はどのように読まれたことでしょうか。どのように聴かれたことでしょうか。その時代の人々には考えもつかなかった、神はこのようなボロボロの世を愛してくださるとの確信が、人を消費するのではなく尊敬し、互いに支えあう交わりを育んでまいりました。確かにわたしたちは弱い者ですから、国際情勢を見たところで、混乱する家庭を見たところで、できるかぎりの事柄しかできません。わたしたちの愛には限界があります。だからこそわたしたちは謙遜と挑みを知り、キリストに従ってまいりましょう。


2023年10月17日火曜日

2023年 10月22日(日) 礼拝 説教 ※当日の礼拝中継視聴用リンクを掲載しています。

 ー聖霊降臨節第22主日礼拝 ー

―――特別伝道礼拝――――

時間:10時30分~



説教=「イエス様ならどうするだろう?」 
森田喜基牧師

聖書=『イザヤ書』40 章 28 ~ 31 節.
         『マタイによる福音書』19 章 13~15 節.

讃美=21-105,21-371,542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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(礼拝終了後も、中継動画をご視聴頂けます)

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

なお、当日は特別伝道礼拝につき、
牧師による収録動画はございません。
宜しくお願い致します。





2023年10月11日水曜日

2023年 10月15日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第21主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「いちばんたいせつなもの」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』17 章 20~26 節
(新約聖書  143頁).

讃美=187,Ⅱ 182,542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 10月9日(月)に千葉県はじめ、太平洋沿岸の広い地域に津波注意報が出ました。震度1以上の地震の観測がないなか、なぜこの津波が起きたのか気象庁も関心を強く抱いています。伊豆諸島では漁船が転覆したり流されたり、房総半島の一部では避難指示が出たりとの報せがありました。アナウンサーが流れるように読むその原稿の奥に、人命の危機には至らないまでも日々の暮らしに欠かせない機材を破壊されたり、突然の避難指示に狼狽えたりするご高齢の方々、一定の設備が無ければ生存に困難な障碍を抱えた方々の動揺はいかほどであったかとの震えを感じずにはおれませんでした。

 自然災害はいつもわたしたちの想定外で起き、わたしたちの日常をはぎとります。そして当事者が何をもっとも大切にしているのかを露わにします。東日本大震災で起きた津波では地域に伝わる「つなみてんでんこ」つまり津波がきたら家族がバラバラになっても逃げ延びなさいという伝承が強調されました。しかしだからといってすべての人がそのように対応はしませんでした。自分が津波に流されるのを覚悟の上で避難を呼びかけ続けた消防団の人がおりました。また寝たきりのお年寄りにお世話になったからと、逃げずにともに召された方もおられました。身体を動かせないお子さんがいる自宅へ戻ったまま帰らなかったご家族もおりました。災害での生存者が賢く、犠牲になった人々はそうではないという考えは余りに浅いように思います。その後復興とともに新しい日常が回復したとしても、戻ってこなかった方々の足跡は決して消されません。

 その時代には破局的な自然災害のただなかで他国が滅亡され、イスラエルの民のみが復活し永劫の栄華に預かるといった誤解に満ちた終末理解は、確かにローマ帝国からの圧力が強まるほど過激になっていったことでしょう。支配者の力を奪う自然災害だけでなく、やがては神の国の実現のための武装闘争さえも正当化されていきます。しかしファリサイ派、すなわちその時代のユダヤ教の中心をなす人々が「神の国はいつ来るのか」と疑問を覚え始め人の子イエスに尋ねたその答えは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」。人の子イエスは時には自らに激しく論争を挑みさえするファリサイ派でさえも、イエス・キリスト自らが構想する神の国からは洩れないと宣言いたします。そして弟子には「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む日が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」と語った後に、救い主の受難が予告されます。これほどまで「見ることはできない」と人の子イエス自らが繰り返すのはなぜでしょうか。

 それは神の国の訪れに先立つ終末、つまり世の終わりには、多くの不法がはびこり、多くの人の愛が冷えながらも「最後まで耐え忍ぶ者は救われ」「御国の福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」との時代が前触れとなっているからです。福音とは一般には「よきしらせ」として理解されます。しかしより具体的にはわたしたちの「関係性の回復」を示しています。たとえ自然災害でいのちを失おうとも、戦乱の中で財産を失おうとも神から授けられ、キリストを基とした関係性につつまれていれば、わたしたちはもはやすでに愛なる神の統治と関わっているのです。聖日礼拝との関わりもこの神の国との絆を、まことに弱いわたしたちが赦しの中で幾度も確かめ、感謝を献げるためにイエス・キリストが設けてくださるのです。

 もちろん『ルカによる福音書』は本日の箇所の後にノアの物語で描かれる洪水や、都市国家ソドムを襲った災害を記し、人の子イエスは「家の中にある家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない」と訴えます。これは本日の福音書が富裕層も視野に入れている点を考えれば、日々を精一杯の思いで生きる人々に較べ衣食住に事欠かなかった人々が、神を中心とした関係性の大切さに鈍感だった態度を示しているのかもしれません。だからこそ書き手は厳しい態度と表現で決断を迫るほかなかったのではないかと考えられます。決してそれは因果応報論や自然災害が神罰であるとの「天譴論」とは結びつかないのです。

 「いちばんたいせつなもの」とは何か。この問いをめぐってわたしたちは絶えず自らの判断基準に苦しみます。しかし本日の箇所では次のように記されます。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。様々な情報の氾濫。これは福音書でいうところの「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」だと言えるかもしれません。しかしイエス・キリストは続けて語ります。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。神から授かるまことの関係性を知るわたしたちは次のように語ることができるでしょう。「真理はあなたたちを自由にする」。キリストに従う、という生き方はイエス・キリストのように生きるというあり方に繋がります。それは様々な破れや身体の不自由さを抱えながらも自由に生きる道です。困難な時に「いちばんたいせつなもの」を見あげましょう。「いちばんたいせつなもの」を分かちあうためイエス・キリストは訪れました。キリストを通してすべてを神に委ねましょう。

2023年10月5日木曜日

2023年 10月8日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「神の赦しにつつまれた実りと平安」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』17 章 1~10 節
(新約聖書  142頁).

讃美=367,503,542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々がこないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」。教会学校で学んだり、キリスト教主義学校のどこかに掲示されていたり、一度は耳にしたりする『コヘレトの言葉』12章1節の言葉です。確かに青年のうちには世の何たるかを知らず、自分の信念や関心事を探求するに余りある情熱もあります。しかし一度世の荒海に出るや、たとえどれほど情熱に燃えていたとしても、何度も水を被るうちに燻るばかりとなり、教会から足が遠のき、かつての友の電話に「世の中そんなきれい事では進まない」と自嘲気味に答えるほかなくなるとの話をわたしは伺ったことがあります。確かにそのようなことばを聴きますと打ちひしがれてしまうのもまた事実ですが「そんなきれい事では進まない」と語る者の心に針で刺されるような痛みがあるなら、誰が「からし種一粒の信仰」すらないと断言できるでしょうか。

 一瞬の出会い、一行の『聖書』の言葉。さりげない支え、後から考えれば押しつけがましかったかと思わず赤面し、反省せずにはおれない振舞い。本人も相手も忘れてしまったような出会いが、あたかも1ミリにも満たないからし種のように根を下ろす事があり得ます。そして侮れないのは総じて植物の種の芽生えは石にひびを入らせ、コンクリートを砕き、アスファルトを突き破る力を授かっているところにあります。重要なのは、わたしたちがその時まで待てるのかという一点に尽きます。

 わたしたちはか弱く見える芽吹いた姿を放っておけずについ手出しをしてしまいます。根は張れているか、葉の色はどうであるか、虫はついてはいないか。案じる気持ちが先んじるあまり芽生えの可能性を摘んでしまいさえするのです。それこそ神に委ねればよかったのに、と後から後悔するばかり。そこには心配の名に隠された不信があります。それこそが躓きとして理解されるのであり、悪意の装いはなく善意の衣をまとってその人ならではの神との関わりの成長を妨げてしまうのです。

 そう考えてまいりますと本日の福音書の箇所には一見矛盾した事柄が記されています。ひとつには「躓きをもたらす者は不幸であり、そのような者は首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」という面。他方には「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という面。躓きをもたらす者もまた罪あるものであるならば、いったいふたつの面のどちらに目を留めるべきだというのでしょうか。

 重要な点は「躓きをもたらす者は不幸である」と記されているのであり「災い」であるとは記されていないところだと考えます。この箇所では『旧約聖書』『創世記』のカインとアベルの物語を重ねてみれば分かりやすくなります。兄カインは弟アベルの献げものが神の目に留められ、自らの献げものが無視されたところに憤り、激情に駆られて弟を殺害してしまいます。弟殺しに対する宣告に「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と怯えるカインに対して神はしるしをつけ、誰もそのいのちを奪えないようにしました。一見過酷に思える『創世記』の「失楽園」以降の物語にも「死んではならない」という神の宣言が、通奏低音のように響きます。ましてイエス・キリストが「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれる」よりも苦しんでいる者を救わないはずがありましょうか。なぜそのような苦しみを覚えるのか。捨て鉢な生き方をするのか。それはその人自身が自分に絶望しているのであって神がその人には絶望してはいない証しです。もし神がその人に対して絶望し、根絶やしにするのであれば「からし種の譬え」は全く意味を失います。その人は世にある居場所を失って誰の記憶からも絶たれます。そのようなことは果たしてあり得るでしょうか。

 泉北ニュータウン教会に招かれて九年目への途上にある現在、わたしは牧師就任式の折の挨拶で「一粒の麦のようにこの地で死になさい」と仰せになった恩師を思い出します。恩師は天に召されて二年間その弔いを世に伏せました。思い出しますのは就任式の席でわたしは生意気にも恩師に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と返した態度です。本日は神学校日礼拝。各地の教会で伝道者不足が叫ばれています。しかし考え方を少し変えれば実に豊かな田畑があちこちに秋風にそよいでいるのがビジョンとして映らないでしょうか。神学校で学んだ事柄を教会に献げるあり方が大切なのは言うまでもありません。研鑽そのものは怠ってはなりませんが、等しく大切なのは教会員の方々の無心な奉仕の姿から学び吸収するというわざです。聖日礼拝の説教のメッセージが牧師自らに返ります。そしていつの間にか「一粒の麦の死」と「豊かな実り」が一体となっているのに気づかされます。世代によって、また賜物によって奉仕のわざの多様さが神に受け容れられているのはなんと幸いでしょうか。神の赦しにつつまれて、新しい世代の踏み台となりたいと願い、その規模の些少を恐れず、神と人との信頼を深めながらキリストに従いたいと祈り願います。