2025年12月26日金曜日

2025年 12月28日(日) 礼拝 説教

―降誕節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 


説教=「いのちの御言葉われらを見捨てず」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章1~12 節
(新約2頁)

讃美= 21-255,501,21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
   2025年も最後の聖日礼拝を迎えました。教会は1月6日までクリスマスを示します。救い主がお生まれになるという知らせを耳にした人々は世の秩序の大転換を予期し、これからどうなるのかと脅える人々もおりました。『マタイによる福音書』ではイエスの誕生を大いに祝福する人々と、不安を覚える人々の姿の違いを鮮やかに描きます。

 本日の箇所ではまず占星術の博士が描かれます。この人々は星の光の動きから世の政の行く末を解き明かす学者と説明すると分かりやすくなりますが、みなさまはこの説明に不自然さを感じはしないでしょうか。実は古代ユダヤ教の誡めによれば「占星術」とはイスラエルの民には固く禁じられていたはずではないか、との問いかけです。確かにユダヤ教では概して神との絶対的な関わりが軸となり、占いは決して奨励されません。しかし事情によれば世の民の行く末を解明する手立てとして受け入れられる場合もあったと申します。そのように考えますと、イエス・キリストの誕生を『旧約聖書』の預言の成就として見なすこの福音書では、占星術の博士による祝福は実に驚くべき出来事であるばかりか、本来なら片隅へと追いやられていた異邦人が救い主の誕生を祝いにきたとの描写により、イエス・キリストの誕生の祝福が古代ユダヤ教の垣根を越えてもたらされ、告げ知らされたとのメッセージへとつながります。

 しかしあくまでも「傍流」からの知らせにより自らの立つ瀬を脅かされるのがローマ帝国の後ろ盾のもとエルサレムの王宮に座していたヘロデ王でした。傍流に立つ、しかも異邦の民から発せられたその問いかけとは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその方の星を見たので拝みに来たのです」とあります。ヘロデ王はユダヤ人の王ではないとの含みをもち、直接的であるにせよ、間接的であるにせよ、ローマ帝国による支持をとりつけたヘロデ王の立場を根底から覆す言葉を聞かされたのです。さらに言えば、『旧約聖書』に記される預言者の物語を例にとれば、異邦の民から王の権威を否定されたのと同然です。ヘロデ王にとって考えられる事態とは、これから民心が離れていくだろうとの事態です。これはヘロデ王には何としても避けなくてはならない状況です。「ユダヤ人の王が生まれる」。その時を知ったヘロデ王に、さらに追い打ちをかけるのが「民の祭司長や律法学者」、つまりヘロデ王に直接には仕えるのではない祭司長や律法学者からの知らせです。そこには「時」に次ぐ「場所」が記されています。『ミカ書』5章には「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」とあります。その言葉を福音書の書き手集団は一部改変して民衆に仕える祭司長や律法学者に語らせます。その場所はベツレヘム。『旧約聖書』では「いと小さき者」とされています。つまりその時代で考えれば箸にも棒にもかからないほどの場所だったはずです。しかしそこにメシアが生まれるとの知らせにより「お前はユダの指導者の中で決していちばん小さな者ではない」と改編がされています。しかしそれは同時に、救い主の誕生による世の秩序の転換がすでに始まっているとの兆しでもあります。民心が次第に離れていく危機感。これはローマ帝国の後ろ盾をも失う恐怖をも示しています。この裏づけによって不安に陥ったヘロデ王は嘘をつきます。それは「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」というフェイクです。実際にヘロデ王はベツレヘムで新しいユダヤ人の王を拝んだのではなく、自らの残虐さを剥き出しにします。「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」。これは歴史にあって繰り返し起きてきたところの、神とは無縁の権力がもつ残虐さを読み手の視野に示し、このような暴力とは全く異なる力で以て世を治める、全く新しいイスラエルの王であり、メシアの誕生を浮き彫りにしています。それでは暴力とはまったく異なる力とは果たして何だと言うのでしょうか。

 それは「言葉」です。より深く申しあげれば「神が語る言葉」です。『創世記』以来、人は神の言葉によって創造され、いのちを吹き込まれました。そして神は道を示すために誡めを人々に授けました。さらに神は人の嘆きを「聞き」ます。サライの息子イサクとの後継者に選ばれなかったハガルとその息子イシュマエルの悩み、そしてイシュマエルの泣き声を聞いたのはアブラハムの神でした。そして本日の箇所でも占星術の博士のいのちの救ったのは神の言葉であり、物語をさかのぼればマリアとの離縁を思いとどまらせたのも神の言葉でした。さらにはエジプトへの脱出を語りかけたのもまた神の言葉でした。そして今。イエス・キリスト自らが神の言葉としてわたしたちに『聖書』を通して語りかけ、わたしたちの言葉にできない悩みや痛みを聞き届けて新しい道を拓いてくださります。嘘偽りの言葉・フェイクを打ち砕く神の言葉に導かれて、わたしたちは新たな年を、キリストの祝福にあふれて進みましょう。