2025年5月30日金曜日

2025年 6月1日(日) 礼拝 説教

―復活節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「キリストに祝福される世界」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24章44~53節
(新約161頁)

讃美=158,21-530(403),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 ある人が地上の生涯を全うしたとき、わたしたちはその人が亡くなったとはあまり申しません。どのような道筋であれ、その場合は「天に召された」という表現を用います。実に言い尽くしがたい荘厳な響きをもちます。

 この「天に召される」という表現と、イエス・キリストの昇天とは全く異なる次元に立ちます。イエス・キリストの場合は、自ら世に遣わされ、救い主として人となり、地上の生涯を十字架で苦しみの極地のなかで終えられ、葬られた後に復活されて、そして自ら天に昇るという意味で「天に召される」のではなく「天に昇る」と唯一無二の仕方で書き記されます。しかし『ルカによる福音書』また『使徒言行録』に記されるキリストの昇天の様子を視覚的にそのまま表現したところで、却ってその書き手集団が伝えようとしているところが何であるのか、却って見失うような気がしてなりません。

 まずわたしたちは、世に遺された弟子たちの立場にあわせて「キリストの昇天」の出来事に思いを馳せてみましょう。イエス・キリストは、魂だけではなく心身ともに併せて復活されました。それは本日の箇所の直前に「わたしは亡霊ではない」と弟子に語りかけながら、復活を喜ぶ弟子たちから差し出された焼き魚を食べたとの記事から分かります。この箇所での焼き魚とは、ガリラヤ出身の人々が長旅をする折に携行していたお弁当であり、もっとリアルな言い方をすれば旅人が食する目刺しのようなものです。つまりイエス・キリストが正真正銘弟子のもとに帰ってきた証しとなるわざをいたします。さてその次にイエス・キリストは自らが『旧約聖書』に記されたメシアであると宣言します。このときに弟子の心の眼が開きます。これまで弟子を慄かせていた「救い主の受難と十字架での死、そして復活の告知」はようやく喜びのメッセージ、すなわち福音となります。そしてあえて弟子をエルサレムの都へと留まらせ、神の国が訪れるその行く末にいたる伝道の豊かな可能性を述べます。そしてベタニアのあたりまで行かれ、手を上げて表向きには弟子を祝福しながら天に昇るという流れになります。

 わたしがなぜ「表向きには」と申したかと言うと、この時点でイエス・キリストによる祝福は、弟子の器を溢れて全世界に及んでいるものだと受けとめたからです。確かにイエス・キリストの姿は、もはやかつての人の子イエスのように地上にはありません。一見すれば「人の子イエスはいなくなってしまった」という深い挫折さえあってよさそうなものですが、弟子はみな神殿の境内に戻り、神をほめたたえていた、とあります。それは、すでにイエス・キリストとの深い関わりが定められているところから来る安心感ではないでしょうか。

 これまで弟子は人の子イエスの言葉の意味も、その行う癒しのわざの真意も分からないまま、十字架への道にいたってはほぼ全員がイエスのもとを離れるという無様な姿を晒しました。その遺体をひきとったのはファリサイ派の議員でイエス擁護の立場にいたアリマタヤのヨセフであり、弟子ではありませんでした。その胸に深く刺さるような痛みと後悔のもとにのみ弟子が留まっていたのであれば、『使徒言行録』に記されるところの世界宣教、そして今日まで続くそのわざは起きるはずがありませんでした。

 イエス・キリストが世から人の手の及ばなくなるところに行かれるところで授けられた祝福。それはこの争いに満ち、悲しみに満ちた世界への祝福となります。本来は祝福に値するところではないはずのところに及ぶイエス・キリストの祝福はすべての疑いを打ち破ります。そして残虐な衝動、人格を認めない歪みから人を解き放ちます。その意味で申しますならば、福音とは絶えず世にある囚われから解き放たれて、キリストの祝福を週ごとに、日毎に自覚するところから始まるのではないでしょうか。神の愛の深い関わりがそこにはあります。

 人は変わり、世は移ろい、教会もまたその姿を少しずつ変えてまいります。そのようなわたしたちが天を仰いで見つめるなかで感じるのは、かつて弟子達もまた同じ姿で頭を上げたという、その追体験です。イエス・キリストの姿が地上より失われてから、弟子はその存在を感じつつ、やがて起きる聖霊降臨の出来事へとその舞台を移します。時にそれは亀裂に満ちている乾ききった大地に潤いの雨が降り、豊かな川の流れとなります。時によってそれは激流によって流された橋に代わって天には虹がかかり、必ず主の平和が訪れるとの約束を示します。沈黙を余儀なくされていた人と人との間に、豊かな語らいが再び芽生えてまいります。誰も好き好んで人を傷つけ殺めるなどの行為はできないものとして神は人を創造されています。その神の良心の種を、主イエスは今も撒いておられます。人の手の及ばぬところへの祝福は、聖霊の働きとして今もなお関わり続けているのです。

2025年5月23日金曜日

2025年 5月25日(日) 礼拝 説教

―復活節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「人の子イエスの祈り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章5~15 節
(新約132頁)

讃美=308,21-512(326),21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
   加持祈祷によって手に負えなくなった病を癒そうとする。また心病んだ人の具合を癒すためにまじないを行う。いずれも日本社会では今も残るところの、しかし表立っては姿を見定めがたい民間療法にも似た振る舞いがあります。いずれにいたしましても医療技術が今日のようにではなく、また医療技術からは排除され追い詰められた人々が群がる場所が今でもあります。

  そのような人々にとって今日「神」という言葉がどれほどの響きをもつというのでしょうか。もちろん戦争によって多くの犠牲のうちに前途の展望を絶たれ、焼け跡に佇む人々には「大丈夫、神さまがいてくれる」との言葉は格別の響きをもったことでしょう。しかし現代のわたしたちの身近に暮らす人々にその声はどれほどの力をもって迫るというのでしょうか。年齢を問わず部屋にひきこもる人々にその言葉は通じるというのでしょうか。

  人の子イエスが群衆と弟子に教えられた祈りとは、その時代におきましても、現代におきましても、そのあり方を根底からひっくり返すわざでした。6章の5節では、それまでの教えを踏襲して、他人の承認を拒むところの祈りです。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。承認欲求を満たすために限られた祈り。当時でいうところの「偽善者」とは形式化された祈祷書をもとにして祈りを献げるサドカイ派を始めとした祭司階級の人々に見られがちな祈りでした。かつてモーセとアロン、また預言者たちがイスラエルの民のために血肉を振り絞るように献げた祈りとは異なる、生活や暮らしの流れとは全く関わりのない祈祷は呪文と同じ。人々に畏怖の念を与えこそすれ、神との関わりにいのちを吹き込み、その関わりを活きいきとさせるわざにはなりづらいところがあります。せいぜい何かの合図といったところではないでしょうか。反対に人の子イエスが伝えようとした祈りとは他人の目には触れないところの祈りです。本来であればエルサレムの神殿にも大祭司しか立ち入れない至聖所という場所があり、そこで聖職者が祈りを献げるわざが尊ばれていたのですが、本日の聖書箇所からするとエルサレムの神殿の至聖所もその機能が十分には果たせていなかった可能性もあります。さらに人の子イエスの祈りは、神に人の願いを叶えてもらおうとして献げるものでもなさそうです。神が人を救うのであって、願いを叶える便利な神を人が作ったわけではないからです。

  イエス・キリストが伝えた祈り。それが本日の箇所、「主の祈り」の雛形ともなる教えの内容となります。この箇所で人の子イエスは、一度も「神」という言葉を用いません。あまりにも祈祷文の中で書き記された言葉は、人々の生活文脈に適さないどころか、理解適わず、暮らしに全く響かなくなっていたとも申せます。その代わりに用いられたのが「父」という言葉。現代からすれば種々の批判に晒されそうな文言でも、その時代に立てばなるほどと膝を叩ける言葉です。本当のところ、言葉のニュアンスは「お父ちゃん・おとん」。現代に較べてはるかに肉体を酷使した時代、治安の悪かった時代。公私ともに父親が家族のために犠牲となる場面は今以上にあったと思われます。またローマ帝国の軍隊では、キリストが十字架を担ぐ際にキレネ人シモンを徴用したように、旅に出た父親が問答無用で拉致される事件も多かったことでしょう。現代以上に母と子だけの家庭が多かった世にあって「父」とはいかなる存在だったか。そう言えば人の子イエスの父ヨセフも静かに福音書の表舞台から姿を消していきます。「父ちゃん」という言葉から、心から希望を必要とする人々と『旧約聖書』に記されたアブラハムの神との関係の再構築が行われます。もはや祈祷文ではなく、人々の暮らしそのものが祈りとして祝福され、そのままの姿で聖化されていきます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」との一文はさらに決定的です。他人から受けた痛みや苦しみを「神なるお父ちゃん」に棚上げするならば、日々の暮らしの中で深く負い目を抱えていながらもお父ちゃんである神は憎しみから解き放ち、前を向かせ、抱きしめてくださるとの理解に繋がります。そうなのです。本日の箇所で描かれた「お父ちゃん」である神とは『ルカによる福音書』15章に描かれる「放蕩息子の譬え」で描かれる父親としての神でもあります。さまざまな事柄に挑戦しながらも失敗を重ね、物乞い同然の姿で家に戻ってきた息子を、誡め通りのあゆみをたどった兄とともに、兄弟同士のわだかまりを温かく宥めながら豊かな交わりをともにする父親なのです。そのような「父なる神」を人の子イエスは示しました。ひきこもりの襖を開けてその懐にとびこんでいきましょう。

2025年5月15日木曜日

2025年 5月18日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「悩みごとをうけとめるには」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』14 章1~9 節
(新約132頁)

讃美=21-466(404),520,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 悩みごとを抱えて夜も眠れないという方が本日の礼拝にはおられるかもしれません。また中継動画をご視聴の方にもおられるかもしれません。親の行く末、子の行く末、わが身の行く末などを案じればきりが無いと言われる人もいるかもしれません。ただし事実ここしばらくのゴールデンウィーク明けと申しますのは、心療内科クリニックがフル稼働せずにはおれない時を迎えています。『牧師閉鎖病棟に入る』『街の牧師 祈りといのち』『弱音を吐く練習』と連続してベストセラーをものしている王子北教会の沼田和也牧師は自ら心を病みながらもそれまで社会はおろか教会の会衆席にも座る場所のなかった人々に光をあて、悩みをめぐって言葉を紡いています。
沼田牧師の選んだ道とは「悩んではいけない」と単純に思い悩みや心の病を否定するところからは始まりません。むしろ悩みを抱え続けているその態度に主なる神から託された価値を見出そうとします。弱音もこぼれましょうし、周囲も巻きこむことでしょうが、それでも思い悩みを否定するのではなく、また『聖書』にそう書いてあるからと悩むわざそのものを否定はされません。むしろ自ら抱え込むほかなかった悩みを、イエス・キリストを通して神に棚あげするというあり方も考えられるというのです。

 精神医学者の野田正彰さんは青少年犯罪者の生育環境の共通点として、仏壇や神棚など手を合わせる場所が屋内にないと指摘されますが、沼田和也牧師のお考えは野田さんの逆を行きます。わたしなりの理解に留まりますが、神棚に献げられるのは榊やお札、盛塩などでしょうが、そのように神棚に「清らかなもの」を献げるのではなく、「思い悩み」「思い煩い」という実に重たい、くさい臭いがしようがベトベト汚かろうが背負わされたどす黒い塊を委ねてしまえというのです。そして後は敢えてそのまま放置するのも一つの道であると語っているように思います。

 悩みごとをうけとめる人が自らを客観視するため良心的な精神科医と対話するのはよくあることですが、ただの対話ではなかなか客観視は難しいところ。その苦しみは『聖書』の世界では「悪霊に憑かれた」と表現されるのでしょうが、「苦しみを分かちあう」という道筋を示してくださったのが他ならぬイエス・キリストです。

 本日の『聖書』の箇所の続きには、「わたしが父の内にあり、父がわたしの内におられることを信じないのか」との言葉が続きます。わたしたちの思い悩みをイエス・キリストがうけとめ、キリストの苦しみをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が受けいれられるという、イエス・キリストとわたしたち、そして父なる神がお互いに苦しみを担い、いつか善きものに変えてくださるとの約束が記されています。
どのようにわたしたちを苦しめる者や原因があったとしても、そのような苦しみや悲しみもまた主なる神の知るところです。いわんやそれが神罰だというような理解は『聖書』には描かれてまいりません。だからこそ刑務所に服役されている人も、重い借金を抱えている人も、入院されている人も、そのただなかで、時には世代を経て主なる神に向けて顔をあげる時を備えられます。今解決できない案件を急いで解決しようと悶えなくてもよいのです。

 思えばイエス・キリストの癒しの物語や譬え話に登場する人々は、さまざまな人間的な破れを抱えています。徴税人であり、もともとは相応の財産をもってはいたものの、度重なる診察費で貧困生活を強いられるようになった流血の停まらない女性、仕事の効率からすれば放置した方がよいのにも拘わらずひたすら迷い出た一匹の羊を追い求める羊飼い、銀貨を無くした女性、大勢の金持ちが献金をこれ見よがしにする中で銅貨一枚を献げる女性、重い皮膚病に罹患し事実上の隔離を余儀なくされている人々、悪霊に憑かれたと言われ長らく墓場で暮らしていた人々。中風を患い仲間に戸板で運ばれてきた人、視力を失い、聴覚を失い、言葉を失った人々。誰もが救いの絵をギリシア人の感覚で美しく描こうとするならば、みな不要であると排除されていった人々です。しかしそのような人々の痛みや苦しみをわがこととしてお引き受けになったのがイエス・キリストです。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げものとした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。『イザヤ書』53章の「苦難の僕」の詩です。眠れられない夜が続くならば、服薬も大切ですが、祈りの中イエス・キリストに課題を棚上げするのはいかがでしょうか。それこそ「委ねる」あり方と表裏一体のわざです。悩みを恐れず、病を恐れず、あゆみを重ねてまいりましょう。

2025年5月8日木曜日

2025年 5月11日(日) 父母の日礼拝 ライブ中継

―復活節 第4主日礼拝―

――父母の日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
演奏とメッセージ
オカリナ演奏:佐々木一真先生 
マリンバ演奏:可児 麗子先生 

メッセージ=「森の詩(うた)からの調べ」

聖書=『ルカによる福音書』12 章 22~25 節
(新約132頁)

讃美= 312.こどもさんびか132,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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2025年5月2日金曜日

2025年 5月4日(日) 礼拝 説教

―復活節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「愛するために生き直す」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章38~42 節
(新約23頁)

讃美=21-327(151). 
21-464(534).21- 29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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【説教要旨】
 『旧約聖書』の記事には、少なからず都市、時には世界が滅亡するという物語が描かれます。現代人からすれば現象からすれば自然災害であったり戦争の結果に破壊されたりという理解へとつながるのかもしれませんが『旧約聖書』の書き手はそのように出来事を年表形式で淡淡と書き記すのではなくて、主なる神からの何らかのメッセージが込められているとして描かれます。もとよりその滅亡の出来事が他人事であれば感情移入のない記録文も可能でしょうが『旧約聖書』ではすべてが当事者の目線で描かれているという点では読み手や聴き手を引き込む力をもっています。「天地創造」を含む物語では「ノアの箱舟」、「族長物語」では「ソドムの滅亡」、預言者の物語では「イスラエル王国」「ユダ王国」の滅亡、さらには「エルサレム」の滅亡までが極めて精緻に描かれます。いずれにしても「滅び」とは神の備えた道からその判断や生き方が次第に逸れていく人々の行着くところとしても描かれているとの一面があります。

 しかしそのような物語が続く『旧約聖書』で極めて異彩を放つのが『ヨナ書』です。『ヨナ書』に細かく立入って語りかける人の子イエスがこの書物に言及するのは、イエスもまた『旧約聖書』に通じていたところを証明する記事でもあります。『ヨナ書』とはアッシリア帝国の都ニネベを救えとの主なる神の言葉を聴きながらもその命令に抗い逃げようとする預言者ヨナの味わう旅とその体験を描いています。わずか四頁ほどの物語ですがその中には『新約聖書』に流れ込む神の愛が記されています。神が救えと命じた都ニネベは、かつてアッシリアがヘブライ人の王国を滅ぼした際、実に残虐に振舞った人々の住まう街として知られていました。成年男子は全身の生皮を剥がされ城壁に貼られ、女性は辱めを受けます。その結果生じたのがサマリアの人々だとされました。ですから預言者ヨナからすれば万死に値する街、滅びに値する街として憎悪の的でしかなかったはずです。しかしヨナが嵐の海で舟の外に放り投げられ、大魚に呑まれて三日目に到着したその都を回りながら悔い改めると、ニネベの街の人々は悔い改め、王もまた救いを求めて生き直そうとします。その姿を見て神はニネベの街を滅びから救うのですが、預言者ヨナには合点がいかず、神と激しく議論するという内容です。

 おそらくはバビロン捕囚以降、ことごとく強大な異邦の民の支配のもとにあって、いつの間にか歪んだ選民意識に捕らわれ始めた古代ユダヤ教の一部の人々と、『旧約聖書』に記されるように、神は自らに似せて創造された「人」をあまねく救われるとの葛藤が人の子イエスの舞台にいたっても続いていたことでしょう。その中での問答として「先生、しるしを見せてください」との言葉が律法学者やファリサイ派の人々から出たに違いありません。しかし人の子イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるし以外にはしるしのほかにはしるしは与えられない」と語ります。そして自らの弔いの時と魚に呑まれたヨナの時を重ねて、神の国の訪れの時にはニネベの人々もまた「よこしまで神に背いた時代の者たち」を罪に定めると述べるのです。「悔い改め」という言葉は誤解を招く場合もありますのでわたしは本日「生き直す」と言い換えてみます。この「生き直し」というチャンスがある限り、わたしたちはいのちの儚さや虚しさに溜息をつく必要は全くないのです。「誤った道をたどったわたしたちが悪い」のではなくて「誤った道をたどったからこそ、今のわたしたちには生き直すチャンスが豊かに備えられている」との喜びが生まれてきます。その「生き直し」の喜びを示してくださるのがイエス・キリストであり、ソロモンの知恵を尋ねに遠く旅してきたシェバ(エチオピア地方)の女王はユダヤ教徒ではない「諸国の民・異邦の民」でありましたが、だからこそそこにもまた神の祝福が豊かに臨んでいるとのメッセージをイエス・キリストは喜びにあふれて語ります。人の子イエスの語る神の愛はあらゆる境を越えてどんなに愚かだといわれようとも、そのようなわたしたちに恵みに満ちた生き直しのチャンスを与えてくださります。
人々を安全・安心な暮らしに導くはずの法律やコンプライアンスが厳密になるほどに、わたしたちの日常はどこか窮屈になるような印象も覚えます。また過去に罪をおかした人が安定した職業に就き社会復帰を果たすわざも決して簡単ではありません。身体も弱り前途に否定的になり、パニックや悪循環に捕らわれもするわたしたちです。けれどもそのようなときに「誰かを愛するために生き直す」「神に愛されているから生き直す」というチャンスを授かる実に豊かな時が備えられているとの『聖書』の言葉に確信をもって新しい週を迎えましょう。