―降誕節 第6主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を向けるなら、左の頬をも向けなさい」。人の子イエスが説いた非暴力の教えとされる言葉。先月の1月15日はマーティン・ルーサー・キングJr.の誕生日でした。マハトマ・ガンディーの影響のもと、人の子イエスの教えを「非暴力・不服従」として公民権運動を展開、39歳で暗殺されるまでの働きは、56年を経た今もなお多くの人びとの心に刻まれています。中でも”I have a Dream”のメッセージは、現在の中学生の英語の教科書に掲載され、暗唱させる場合も数あると聞きました。
しかし本日の箇所、エルサレムの神殿の境内での人の子イエスの振る舞いは、一見するとこのような「非暴力・不服従」の教えから遠いところにあるように思えます。つまり人の子イエスが自ら語った教えと矛盾した狼藉に及んでいるように思えます。しかし、確かにそのように見えても、そこには人の子イエスの熟慮されたメッセージが隠されています。まず、「追い出す」と訳される言葉は英語ではdrive out ですが、Bad money drives out good, drive out evil thought,「悪貨は良貨を駆逐する」、「邪念を追い払う」というように用いられるのが主な用法で、そこで人が暴力によって追い出されるかどうかという疑問については文脈で判断する他ありません。ですからキング牧師が白人専用のレストランに入店し、学生たちとともに座席に座るという行為もまた人種差別という邪念へのdrive out としての表現も可能です。要はそのように人の子イエスが神殿の境内で売り買いをする人の居場所を失くした、との状況として理解できます。なぜそのような人々の居場所を失くしたかと問えば、そこは本来祈りを求める人々の居場所だったからです。「強盗」という言葉は、その意味での強い非難が込められています。
すでに人の子イエスの世には、貨幣を中心に回る経済がローマ帝国での暮らしには充分なほど浸透していました。「両替人」とは、ローマ帝国の皇帝の顔が刻み込んである当時の通貨がエルサレムの神殿での境内では使用できないため、とりわけ貧しい人のための献金用に両替されていたことを示します。しかしその両替には手数料が商人の言い値で決められます。郵便局やATMの手数料以上に、貧しいながらもエルサレムの神殿で祈りを献げたいという人々は、経済的に閉め出されてしまうという周到な仕組みが完成されていました。「鳩」もまた「山鳩ひとつがい」として貧しい者の献げものにされていましたが、それすらも充分なお金なしには祭司を伴うところの礼拝にすら加われないありさまです。何度も触れておりますが、人の子イエスの時代のエルサレムの神殿は、あのヘロデ大王がローマ帝国の認可を得て建てたものであり、その意味では極めて政治色が強く、結果としてまことに祈りや癒しを必要としている人々が、祈りの場に日常的には立入ることの実に困難な具合をしておりました。だからこそ人の子イエスは『旧約聖書』を引用して語ります。その結果、目の見えない人や足の不自由な、その時代では遠ざけられていた貧困と孤独の中に放置されていた人々が、上辺では暴力的に見えるイエスのもとへ近寄ってまいります。イエスは本日の箇所での振る舞いにより、そのような人々のための「祈りの家」を再建されたのです。その神への誠実さを見抜いたのは怒りに震える律法学者や祭司長たちには許しがたい「ダビデの子にホサナ」つまり「万歳、やった、ダビデの子!」と叫んだこどもたちでした。このわざにより、人の子イエスはまさにキリストとしてエルサレムの神殿の中心でも歓迎されたのです。
しかしわたしたちはこのような「祈りの家」を日常から遠ざけているかもしれないと反省します。それはこの礼拝堂がウィークデイにはこども園の施設になる、不思議な教会だという呟きとは全く異なります。パウロは『コリントの信徒への手紙Ⅰ』6章19節で、わたしたちの身体をして「知らないのですか。あなたがたの身体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と記す通りです。礼拝堂のもつ他の設備との決定的な違いは、主の愛がそそがれるこの礼拝において、どのような人、どのようないのちをも問わず、その人自らが神の愛の力、すなわち聖霊の宿る神の神殿であり、その神殿を整えてくださるのがイエス・キリストだ、という事実なのです。ヘロデ大王とその息子らを含んだローマ帝国の支配のもとでは、もっとも開かれ、大切にされるべきこの祈りが疎んじられました。だからこそイエス・キリストは両替商や鳩を売る者をも含めて、暮らしの中心はまさしく祈りの家たる神殿であり、各々の身体もまたそのようになるために手入れをされます。究極の癒しは、そのような祈りに満ちた日々のわざと心得る月の始まりです。