2025年1月31日金曜日

2025年 2月2日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「決して譲れないいのちの大原則」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』21 章12~17 節
(新共同訳 新約40頁)

讃美= 
21-494(Ⅰ.228). 
121. 21-29 (544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を向けるなら、左の頬をも向けなさい」。人の子イエスが説いた非暴力の教えとされる言葉。先月の1月15日はマーティン・ルーサー・キングJr.の誕生日でした。マハトマ・ガンディーの影響のもと、人の子イエスの教えを「非暴力・不服従」として公民権運動を展開、39歳で暗殺されるまでの働きは、56年を経た今もなお多くの人びとの心に刻まれています。中でも”I have a Dream”のメッセージは、現在の中学生の英語の教科書に掲載され、暗唱させる場合も数あると聞きました。

 しかし本日の箇所、エルサレムの神殿の境内での人の子イエスの振る舞いは、一見するとこのような「非暴力・不服従」の教えから遠いところにあるように思えます。つまり人の子イエスが自ら語った教えと矛盾した狼藉に及んでいるように思えます。しかし、確かにそのように見えても、そこには人の子イエスの熟慮されたメッセージが隠されています。まず、「追い出す」と訳される言葉は英語ではdrive out ですが、Bad money drives out good, drive out evil thought,「悪貨は良貨を駆逐する」、「邪念を追い払う」というように用いられるのが主な用法で、そこで人が暴力によって追い出されるかどうかという疑問については文脈で判断する他ありません。ですからキング牧師が白人専用のレストランに入店し、学生たちとともに座席に座るという行為もまた人種差別という邪念へのdrive out としての表現も可能です。要はそのように人の子イエスが神殿の境内で売り買いをする人の居場所を失くした、との状況として理解できます。なぜそのような人々の居場所を失くしたかと問えば、そこは本来祈りを求める人々の居場所だったからです。「強盗」という言葉は、その意味での強い非難が込められています。

 すでに人の子イエスの世には、貨幣を中心に回る経済がローマ帝国での暮らしには充分なほど浸透していました。「両替人」とは、ローマ帝国の皇帝の顔が刻み込んである当時の通貨がエルサレムの神殿での境内では使用できないため、とりわけ貧しい人のための献金用に両替されていたことを示します。しかしその両替には手数料が商人の言い値で決められます。郵便局やATMの手数料以上に、貧しいながらもエルサレムの神殿で祈りを献げたいという人々は、経済的に閉め出されてしまうという周到な仕組みが完成されていました。「鳩」もまた「山鳩ひとつがい」として貧しい者の献げものにされていましたが、それすらも充分なお金なしには祭司を伴うところの礼拝にすら加われないありさまです。何度も触れておりますが、人の子イエスの時代のエルサレムの神殿は、あのヘロデ大王がローマ帝国の認可を得て建てたものであり、その意味では極めて政治色が強く、結果としてまことに祈りや癒しを必要としている人々が、祈りの場に日常的には立入ることの実に困難な具合をしておりました。だからこそ人の子イエスは『旧約聖書』を引用して語ります。その結果、目の見えない人や足の不自由な、その時代では遠ざけられていた貧困と孤独の中に放置されていた人々が、上辺では暴力的に見えるイエスのもとへ近寄ってまいります。イエスは本日の箇所での振る舞いにより、そのような人々のための「祈りの家」を再建されたのです。その神への誠実さを見抜いたのは怒りに震える律法学者や祭司長たちには許しがたい「ダビデの子にホサナ」つまり「万歳、やった、ダビデの子!」と叫んだこどもたちでした。このわざにより、人の子イエスはまさにキリストとしてエルサレムの神殿の中心でも歓迎されたのです。

  しかしわたしたちはこのような「祈りの家」を日常から遠ざけているかもしれないと反省します。それはこの礼拝堂がウィークデイにはこども園の施設になる、不思議な教会だという呟きとは全く異なります。パウロは『コリントの信徒への手紙Ⅰ』6章19節で、わたしたちの身体をして「知らないのですか。あなたがたの身体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と記す通りです。礼拝堂のもつ他の設備との決定的な違いは、主の愛がそそがれるこの礼拝において、どのような人、どのようないのちをも問わず、その人自らが神の愛の力、すなわち聖霊の宿る神の神殿であり、その神殿を整えてくださるのがイエス・キリストだ、という事実なのです。ヘロデ大王とその息子らを含んだローマ帝国の支配のもとでは、もっとも開かれ、大切にされるべきこの祈りが疎んじられました。だからこそイエス・キリストは両替商や鳩を売る者をも含めて、暮らしの中心はまさしく祈りの家たる神殿であり、各々の身体もまたそのようになるために手入れをされます。究極の癒しは、そのような祈りに満ちた日々のわざと心得る月の始まりです。

2025年1月25日土曜日

2025年 1月26日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「不安と恐怖からの解放の知らせ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章12~17 節
(新共同訳 新約5頁)

讃美= 
308. 21‐475(352).
21-24 (539). 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 洗礼者ヨハネが捕らわれたとの知らせ。その理由は、直接にはヘロデ大王の息子アンティパスが、自ら恋仲になったヘロディアと結婚したという「兄弟の妻と結婚の禁止」を破った態度を激しく批判したとされていますが、いよいよ権力による口封じがガリラヤにも及び、人々が口を閉ざすようになった沈黙の時の訪れを暗示してもいます。もはや町の料理屋でも市場でも誰かが目を光らせ、うかつには物事を語れなくなったその時代。イエスは一度ガリラヤを離れ、異邦人の土地カファルナウムに働きの根を下ろします。しかし宣教活動としては逆境でもあるこの圧制下を福音書の書き手集団は「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射し込んだ」と書き記すのです。先日は大統領に就任したトランプ氏を前に異邦の民の権利の擁護を語りかけた聖公会のバッディ主教が注目されましたが、自由にものを語れなくなったはずのこの土地で、なぜ「光が射し込んだ」と書き記し得たのでしょうか。注目するべきは「ゼブルンの地とナフタリの地」と表現される土地が具体的にはどのような意味を『旧約聖書』では持っていたのかという点です。

 問題は「ゼブルンの地」も「ナフタリの地」も『新約聖書』の時代には概してそのようには呼ばれてはいなかったところにあります。かつてはイスラエルの12人の兄弟にそのルーツを訪ねられた、ゼブルンとナフタリという二つの部族は、すでに人の子イエスの時代にいたるまでに、アッシリア大帝国によって滅ぼされてしまいました。そればかりかアッシリアとの争いに敗北したことによって、民を陵辱されるという仕方で消滅させられ、本日の物語の舞台ではガリラヤとサマリアの文化の折り重なる場所となっていました。つまりエルサレムに暮らす人々からすると、神殿での礼拝から離れ、アッシリア人の血筋が混ざり込んだがゆえに穢れた民であるとのレッテルを貼られた人々が多く行き交いまた暮らす土地とされていたとの状況に落ち着きます。言い換えれば福音書の書き手集団は洗礼者ヨハネの逮捕という悲劇的な出来事を悲劇には留まらせるのではなく、その先にはこのヨハネの後を継ぐようにして人の子イエスが「悔い改めよ、天の国は近づいた」との、世に暮らす人々への神の国の訪れを説き始めたという時の訪れにフォーカスを当てるのです。神の国の訪れ、神の愛による統治の訪れを説く役割が洗礼者ヨハネから人の子イエスへと移ったと高らかに宣言いたします。

 洗礼者ヨハネの逮捕はおそらくその人に救いを求めてきた人々には衝撃的であったに違いありません。特に暮らしの中で多くの苦しみを抱えてその拠り所を明らかにしたいと願う人々には水による「清めの洗礼」は意味あるわざでした。またその口から出る現状への堂々たる批判も人々の頷くところではありました。しかし洗礼者ヨハネも自覚していたように、決定的にそこに不足していたのは神の国の訪れが善悪を明確にするという意味での審判を越えて、多くの破れをもつ人々の痛みを癒すばかりか、対立関係として分裂しがちなわたしたちのあり方を和解に導き平和をもたらすところにあります。だからこそ洗礼者ヨハネが人の子イエスに洗礼を授けた際に、神の愛である聖霊が鳩のように降ってきたと記されていると考えられます。もはや混沌とした時は終わりを告げ、人々にはいよいよ不安と恐怖から解放される時がまいりました。洗礼者ヨハネの逮捕の悲しみと心細さはもはや乗り越えられつつあるのです。洗礼者ヨハネの語る「世の終わり」では異邦人はどのような扱いとなっていたのでしょうか。またユダヤの民に代々遠ざけられていたサマリアの人々はどのように扱われていたのでしょうか。そのあたりについては興味が尽きませんが、少なくとも『旧約聖書』の預言者、そして洗礼者ヨハネを通して示されてきた神の愛が、イエス・キリストの宣教と証しにあって大河のように流れ込み、獄中の洗礼者ヨハネをもいずれ安らぎに導き、サマリアの人々にまで及び、そしてその流れはいつしかローマ帝国全体をも覆い尽くし、今日においてはわたしたち極東に暮らす者までも包み込んでいるように思えてなりません。イエス・キリストに示された神の希望と癒しはそこまでに深く現代のわたしたちにまで及んでいるのです。
 だからこそ分断を叫ぶ声がそこまで来ているように思えても、何も恐れる必要はありません。人々を困窮へと追いやる声は必ず絶えます。それよりも、わたしたちはこの混乱の時代にあってなおも働く神の愛の力に目を注ぎましょう。難しくはありません。イエス・キリストがおられるならば、何をどのように語り、誰を癒すのかと祈りの中で思い描けばよいだけなのです。誰にでもない、キリストの姿を胸に焼きつけましょう。

2025年1月17日金曜日

2025年 1月19日(日) 礼拝 説教

  ―降誕節 第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「漁師からキリストの弟子へ」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新共同訳 新約 109頁)

讃美= 
21-495,(310). 
21‐306(1.2.4.5.), 
21-24 (539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 冷たい風が吹く中での礼拝となりますが、オホーツク海やベーリング海でカニ漁に従事する漁師たちはいったいどのような環境に置かれているのかと考えますと背筋が凍りつきます。カニを捕まえる罠であるコンテナを定置網のように荒海に投げ込んでいき、他の漁場からの帰りに回収していきます。三角波が漁船を翻弄し、海に落ちれば誰にも助けられません。甲板に押し寄せた海水はたちまち凍結します。その氷を割りながらの作業はわずか三時間の睡眠と僅かな食事ばかりの中で行われます。賞金稼ぎと同じスリルなのかもしれませんが、反対に言えばこの仕事は常に死と隣り合わせだとしか言いようがありません。事故がなくても身体は確実に蝕まれます。

 福音書の世界に漁船を見ることのできたガリラヤ湖、本日の箇所ではゲネサレト地方から眺めたためゲネサレト湖として呼ばれます。ただその漁獲は漁師の暮らしには充分ではなかったでしょう。作業の時は夜。湖に漕ぎ出し、煌々とかがり火を焚いて魚を呼び寄せて網を投じます。しかし今とは異なり湖の上で目印となる明かりは地上には僅か、月や星も雲に隠れてしまえば行く手は闇につつまれ、いのちの危機に晒されます。そのような時を経て疲れ果てた漁師。一晩眠ることもなく徒労の中で網を繕うより他はありません。

 そのような漁師に響く声があります。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。眠気と気怠さの中であれこれと願い事をしてきたその声は、それまでとは異なる響きとともに迫ります。「漁をするのか、しないのか」との決断。漁師はからかい半分に答えるしかありません。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しました。しかし、何も獲れませんでした」。しかし続いたのは「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」。魚が獲れなければこの男も諦めるだろうし離れていくだろうとの気持ちもなかったわけではありません。しかしその通りにしたところ確かに昼日中にはち切れんばかりの魚が獲れました。

 実はこの魚には初代教会の信仰告白の頭文字がギリシア語で略され、隠されています。船を『旧約聖書』のノアの箱舟に重ねて救いの場としての教会に重ねる人々もいます。網に示される教会同士の絆が破れそうになったからこそ互いの繋がりが強められ、助け合う間柄となる様子がダイナミックに描かれているという人もいます。しかし、そのような解き明かしだけでは、なぜシモン・ペトロが漁の後にイエスの足下にひれ伏したのかが分からないのです。魚が獲れたのであれば喜べばよいし、教会の教勢が増せば素直に感謝すればよいのです。しかし、シモン・ペトロも他の漁師もそのようには振舞いませんでした。いや、振舞えませんでした。

 『ルカによる福音書』は紀元後80~85年に成立した福音書だと言われています。つまり人の子イエスが十字架につけられ、死して葬られた後に復活したとの出来事、そしてその後の教会の働きを物語として継承するために記された物語です。最後の晩餐を囲んだ時にペトロは「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と語りますが「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と語る人の子イエスの言葉が理解できません。嗚咽しながら納得できるのは、イエスが自ら身柄を拘束されて夜半に大祭司の家に拉致されていくその折に鶏が時を告げたその時に、自らが人の子イエスを恐怖に駆られて見捨てたまさにその時でした。だからこそすべてに挫折し希望を失い、もとの生業に戻ったそのときに、復活のイエス・キリストに出会ったのであれば、誰もが同じように地にひれ伏すのではないでしょうか。その現実を充分に知りながら、イエス・キリストは語りかけます。「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」。世のただ中へ漕ぎ出して、あらん限りの交わりを世に投じてみなさい。その交わりはあなたのものではなく、わたしのものなのだから、やり直せるのだと。

 わたしたちは日曜日に礼拝を献げるためにこの場へと招かれます。いったいなんのために毎週日曜日教会に行くのかとご家族に問われた方もおられることでしょう。町内会のわざを覚えながらもこの場に集う方もいれば、こども園の働きの備えの中でこの場におられる方もいるでしょう。しかしこの主なる神から授かった尊いルーティンの中で、わたしたちは過酷な暮らしの中で全てを捨てて人の子イエスに従った弟子の歩みを追体験いたします。この追体験の中でわたしたちは単なる成果への喜び、あるいは出来・不出来の一喜一憂の軛から解き放たれ、イエス・キリストに祝福され、愛されていることに気づかされます。憎しみの渦巻きや不安の渦巻きにではなく、どうにもできない世の渦巻きから神の力の渦により引揚げられてまいります。だからこそ教会では礼拝が何よりも大切にされました。破れに満ちた、しかしその破れ以上に祝福されたその網に身を委ね希望を授かりましょう。

2025年1月10日金曜日

2025年 1月12日(日) 礼拝 説教

―降誕節 第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 


説教=「救い主、大地に立つ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』3 章 13~17 節
(新共同訳 新約 4頁)

讃美= 21-268(97). 21‐474,
   21-24 (539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 先ほど讃美した讃美歌21‐268番。1954年訳のⅠ編97番にあたりますが、今年度はクリスマスの期間には選びませんでした。それはかつて喜ばれたこの讃美歌の歌詞が多くの議論を招いた場面に由来します。例えば1節の「この世の悟りも空しきもの」は旧版では「愚かなる人は来たり学べ」、3節の「憂いある人は来たり告げよ」は「高きも低きもきたりいわえ」となっています。わたし個人としては文語体の表現も捨てがたいのです。なぜなら讃美歌は何らかの人生の記憶と直接結びついているからです。その記憶は決して否定されてはなりません。また牧師自らを省みるに決して賢い者だともこの格差社会の上部構造に属してもいません。けれども旧讃美歌の歌詞を無条件に前提としてしまった結果、クリスマスの讃美に「ひっかかり」を覚えてしまう人が跡を絶えなかった事実を受けて歌詞が改変されるに及んだとされます。現場の奏楽者の葛藤は見逃せません。その経緯を経て現在のところ、先ほど讃えた讃美歌が教会やキリスト教主義学校では一般化しています。
 ただしこのお話は讃美歌Ⅰ編を貶めるためではありません。『聖書』でも概ね30年に一度、翻訳の改訂版が出版されます。その上で手を入れる箇所には作業がなされます。それは30年の月日の中で、わたしたちの暮らし、また用いる言葉が変化するからです。『岩波文庫』の言葉もまた場合によって脚注がつけられます。また教科書の日本語も音楽の教科書に収録される合唱曲も変わります。言葉も音楽同様、川の流れのように絶えず動いていきます。そしてその流れ、則ち文脈を踏まえなくてはその理解は思わぬ誤解をもたらします。若者は年配者の言葉、年配者は若者の言葉を理解できないもどかしさから「最近の若者は」との愚痴が生まれます。古代文明に遺された落書きからも、中高年の溜息混じりの言葉と同じものが発見されます。イエス・キリストに立った上で、この変化を見渡さずには時代に媚びず、されど時代に響くキリスト教教育や伝道は難しいところです。
 本日の箇所では、そのような流れに表される世にあって、ヨルダン川で人々に悔い改めを叫び、「清めのための洗礼」を授けていた洗礼者ヨハネのもとに人の子イエスがやって来たところから始まります。洗礼者ヨハネは救い主との出会いの中では、預言者以上の預言者だと言われます。『旧約聖書』で神の言葉を委託され、腐敗した政治の中で書物としての『聖書』を忘れた民衆へ生き方を変えるように呼びかけ、癒し励ますのが預言者です。中でも移ろう世にあって直々に人の子イエスと出会うのが洗礼者ヨハネです。しかし本日の箇所でヨハネは人の子イエスを抱擁いたしません。さりとて人の子イエスに「来るべき方はあなたですか」と問いかけもしません。ヨハネは、人の子イエスに「清めのための洗礼」を授かることを思いとどまらせようとします。すでに救い主は人の子の姿をとって世に現れました。洗礼者ヨハネにはこれで充分なのです。「わたしこそ、あなたから〈清めの〉洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、人の子イエスは答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。人の子イエスは、ヨハネが行うこの世、移り変わりつつ、清らかさと濁りの双方で混沌とした世にあって、まさしく清めを必要とする人と友になるためにヨハネから水による洗礼を授かりました。これはわたしたちの世界で行われる禊ぎとは全く逆で、汚れを身にまとい、無理解を身にまとい、思うままにならない流れに浸かり、敢えて人々の勝手な期待にその身を縛られるためでもあります。そのような場にわが身を置くことで、イエス・キリストの救い主としての働きは人々を解き放ち、神のあふれる祝福のもと、わたしたちとともにあるとの宣言にいたります。
 わたしたちは福音を「これしかない」と固定したり、縛ったりしたあり方に押し留めてはいないでしょうか。そのような理解は概ね30年で想い出へと過ぎ去っていきます。わたしたちが根を下ろすべきは、老若を問わず、時の流れにある『聖書』の言葉に示されたイエス・キリストです。イエス・キリストは歴史上紛れもなくユダヤ人です。しかしその姿はわたしたちには、ヨーロッパの伝統的な聖画に記されたイエス・キリストの姿になったり、人口が流動的な中東に住んでいたりという理由からアフロアフリカンのイエス・キリストの姿として、またはこの教会で描かれる東洋的な姿として多様に描かれる場合もあります。しかしイエス・キリストの性格や、その顔つきについて書き残した文章は福音書も含めて今日には遺されていません。大切なのはまさしく人の子イエスがキリストとして大地にたち、大いなる救いのわざを始めた事実。その歩みはどのような誹りにあっても紛れもなく神に祝福されたとのメッセージです。いかなる世代にも神の祝福は及んでいる事実を受け容れましょう。