2024年10月30日水曜日

2024年 11月3日(日) 礼拝 説教

―降誕前 第8主日礼拝―

――永眠者記念日礼拝――

時間:10時30分~説教=「見えざる墓碑が示すいのちの道」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』23 章 25~34 節
(新共同訳 新約 46頁)

讃美= 21-575,496,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 墓碑や墓標には時代や諸宗教、習わしによって様々なかたちがあります。中央アジアの遊牧民のように墓らしい墓を作らずに風葬にする民もいれば、民を大動員して巨大な墳墓を築きあげ、仕えていた奴隷とともに埋葬するという文化もあります。かつての農村のように土葬を執り行うところもあれば、わたしたちのように火葬に付して後に遺骨を墓地に収めるという考え方もあります。

 東日本大震災以降では、行方不明になっていた家族のご遺体が発見されるとそれだけでも遺族が安心するという様子を目にいたしました。一つの大きな節目がついたという意味でみなさまは安堵されている模様ですが、正直に申しあげて生きて帰る方がどれほど嬉しかったことかと偲ばれます。

 そのように考えてまいりますと、本日の福音書の箇所で「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という定型句を13節から始まって七回、詳しくは六回半続く叱責の言葉は非常に興味深いところがあります。特に最後と終わりから二節目の文章にあたる「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法に満ちている」、そして「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして預言者を殺した者たちの子孫であることを自ら証明している」は目を留めるところです。

 律法学者やファリサイ派の人々の墓とは、消毒のために石灰を広く塗っていたと言われます。ですから傍目には白く見えたとしても、内部には土葬された遺体が残っているというしくみを重ねて、人の子イエスはその時代の権力に身を委ねながらも結果としては民衆の懐柔政策という意味でローマ帝国による民衆の支配に貢献していた一部の律法学者やファリサイ派を批判いたします。また英雄視される預言者、つまりその時代の権力者や多数派の民衆に対しては鋭い批判を浴びせながら、その陰で苦しむ人々を慰め励ました「神の言葉を預かる者」とされた者への偶像化には断固反対する姿勢を貫きます。

 それでは名を残すどころか、粗末な墓碑すらも建てられなかった人々に、イエス・キリストはどのように向きあわれたのでしょうか。自然災害や海難事故、戦争でその遺体すら遺らなかったという人々は有史以来無数におられます。その遺族も世に絶えてしまったのであれば、わたしたたちはどうすればよいというのでしょうか。

 わたしたちはそこにこそ、イエス・キリストの復活に示される神の愛による統治の完成という世界を見出したいのです。神の統治が実現するとき、そのような無数の人々がイエス・キリストに従っていのちを新たに授かり、復活し、わたしたちと再会を果たすというのが『聖書』の理解です。もはやすでに、しかしまだ始まったばかりの神の統治が実現するその時には「死」には完全にとどめが刺され、新たないのちが授けられて復活するとの理解。それがキリスト教の教会であればどこでも、その母体となったユダヤ教においても、またイスラームの世界においてもすべてではないにせよ見出すことができます。この出来事を伝える教えこそが肝腎であります。

 第二次世界大戦が終ってからも、わたしたちの暮らしの発展には絶えず犠牲が伴ってまいりました。中でも忘れられないのが世界第三位の海難事故として知られる青函連絡船・洞爺丸事件です。今のように気象情報が発達していなかった1954(昭和29)年、台風15号到来にあって、台風の目を晴天と勘違いしたスタッフは函館から青森までの出航を決意したとありますが、函館港や青森港では停電や想定外の輸送船による混雑があったことを当時の無線記録は明らかにしています。洞爺丸以外にも他の4隻もまた転覆、船体破断などで沈没しました。そのような大惨事の中には、こどもの救命胴衣の着衣を手伝った方々にカナダ人宣教師アルフレッド・ラッセル・ストーン宣教師と、YMCAから日本に派遣されたアメリカ合衆国のディーン・リーパー牧師がいました。ストーン宣教師は農村伝道神学校を建て、リーパー牧師のご子息は米国人として初めて広島文化センター理事長としてお働きになりました。たとえ墓碑はなくても、その場には神のいのちの光りが煌々と輝いていたはずです。

 わたしたちにとってもし墓碑というものが幸いにして赦されるのだとすれば、その墓碑は神の国への入口を示しています。イエス・キリストがその入口を開かれた墓に、わたしたちはいっときの間留まり平安を授かります。そしてわたしたちはいのちの光りにあふれた復活の出来事を、礼拝への出席を通して追体験できるのです。

2024年10月24日木曜日

2024年 10月27日(日) 礼拝 説教

―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~
説教=「すべてのいのちの源である神の愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章 28~33 節
(新共同訳 新約 18頁)

讃美= 495,21-404(213),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
以前お話しした、釜ヶ崎で地域医療に励む中で不審死を遂げられた矢島祥子医師の再捜査を求めるチラシ配布を今月14日も与えられました。祥子医師の月命日は14日ということで、国道26号線を挟んだ鶴見橋商店街では行われています。日本基督教団高崎南教会に属していた祥子医師。実際に商店街に立ちますと、いろいろな事柄が見えてまいります。朝の時間帯による人の流れの変化だけでなく、自転車を走らせていく人、食堂の準備のためにスーパーで山ほど買い物をする人、通所で福祉サービスを受けるために伝道車椅子で行き交う人、脳梗塞の副作用からか杖をついて歩く人、専門の食材店に通うベトナム系の人やインドネシア系の人、車輪つきの大きなトランクを押しながら歩く観光客、チラシをうけとってくださる方、「そんなことやってもむだだ」と意見される人など様々です。日本人は高齢の方々が多く、反対に外国籍の方々に若者が多いという今の日本の状況もまたよく分かってまいります。しかし、どのような人であっても頭を深々と下げ「よろしくお願いします」と一枚の紙を差し出す者に暴力を振るう者はおりません。

今でこそ身の安全が保証されている中でチラシ配布ができる世ですが、福音書がカタコームという墓場を礼拝所として用い、読みあげられたその時代での宣教活動に対する対応はもっと暴力的で、正直に言えば「自分はキリスト者ですが」と名乗った時点でどうなるか分かったものではないという時代でもありました。その中で本日の週報に刻まれた箇所に先んじるところの『マタイによる福音書』10章26節からお読みいたしますと「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことができない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」とあります。目を留めるべきはこの箇所で人の子イエスは精神主義に立つ軍隊のような命令を弟子に伝えているのではなく、福音宣教のわざに臨んでまことに恐れるべき者は誰なのか、というところです。この意味で、本日の箇所は誤読しやすいところではあります。

ですから文中には「領主ヘロデを恐れるな」や「ローマ皇帝を恐れるな」といった言葉が記されるのではなく、むしろわたしたちの目からすればほんの小さな、日常の中ではほぼほぼ重い価値を見出さないところにこそ、神は自らの愛をそそがれるとの言葉があります。これこそが恐れるべき事柄です。つまり「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」との箇所。ここで記されている「二羽の雀」とは、恐らくは市場で販売されている日常の嘱託としての雀であったかと考えられます。エルサレムの神殿に献げられる生贄ではなく、人々がなにがしかの調理を加え、または調理済の仕方で販売されている雀です。1アサリオンとは現代でいう100円ほどの値打です。実に庶民的な食物となる鳥ですが、その一羽でさえも神の赦しがあればこそ大空を舞い続けると人の子イエスは語ります。それに加えて「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている」と教えは続きます。これは神がわたしたちを監視しているというのではなく、日々を生きる力を備えてくださっている、見守っているという文脈なのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と本日の『聖書』の箇所は終ります。「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな」というところから、「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と続く理由が、1羽の雀のいのちとて疎かにしない神の愛に根ざしているところが分かるというものです。

わたしたちが教会のわざに励もうとするとき、何かの証しをそれぞれの賜物のなかで示そうとするとき「大したことではないのです」と語るときがあります。それはまさにその通りなのです。時には萎縮もしますし、人間関係でつい考え込んでしまう事案もあることでしょう。鶴見橋商店街でフライヤーを撒くといえば格好はよいのですが、笑顔で受け取ってくださるアフロアフリカンの女性がいる一方で、配布終了の時間になれば、人々の靴跡だらけになっているフライヤーを見つけて拾い集めます。それでもご遺族は一縷の望みをかけて来月も行われることでしょう。わたしたちもまた、この礼拝に誰が来ようともその方を受け容れるに相応しい交わりを育みたく存じます。宗教改革記念の礼拝ですが、賛否はどうあれ、「たとえ明日世界が終わりを迎えても、わたしは今日、林檎の苗を植えるだろう」ルターの言葉が胸によぎる一週間でありたいと願います。


2024年10月13日日曜日

2024年 10月20日(日) 礼拝 説教 (特別伝道礼拝)

―聖霊降臨節 第23主日礼拝―

―特別伝道礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「たとえ雨風にさらされても」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』3 章 16 節
(新共同訳 新約 167頁)

讃美= 安田美穂子さん

会衆讃美=312(1 節のみ).Ⅱ 157(1 節のみ),
21 ‐ 24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継動画版」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

2024年10月10日木曜日

2024年 10月13日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節 第22主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「このひとりのために」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 45~54 節
(新共同訳 新約 190頁)

讃美= 
519,21-520(452),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 秋分の日を過ぎた頃からようやく吹く風も秋めいてまいりました。教会で礼拝をお献げになる方々には、概して日本で行なわれる「運動会」がどのようなものか分かりかねる人もおられるかもしれません。近畿より東と、近畿より西ではプログラムも変わるでしょうし、時代によっても内容が変わります。まずは近畿より東ではどのような運動会となるか、想い出話としてではなく、昭和の記憶を頼りに辿ってみます。

 朝6時ごろに音だけの花火が響き、地域に運動会があるぞとの徴となります。グラウンドは競技のためのスペースと、保護者が新聞紙なりビニール製の風呂敷を敷いて食事ができるようなスペースが設けられます。前日の夜に作られた重箱入りのお弁当をもって生徒の家族は枡席のように場所を確保し、6時半に教室で点呼、7時から整列と行進、さらなる整列と国旗掲揚の後に国歌斉唱、ラジオ体操と続きます。競技の最中にありがたいのは、練習中には喉が渇いても水は飲めないのにも拘わらず、時には少しは大目に見てもらってプログラムの切り替わり毎に保護者席でお茶を飲めたことです。おおよそ八百名の生徒は紅組と白組に別れます。あくまでお互いに競争心を強め、運動会で勝つのが目的。集団プログラムは保護者に練習の成果を見せるのが勝負で、運動会の終わりには校長から講評の話をいただき教室に戻り、もらった紅白饅頭を自宅で家族と頬張るという流れです。

 このように一通りのお話しをいたしますと「在りし日の想い出」といった内容になりがちなのですが、注意してみますと、どこにも「個人」がいません。ベースとなるのは組織です。もちろん人はチームワークでもって社会性が養われる一面はありますが、個人を活かすためのチームワークはどこにも見いだせません。1950年代には肢体不自由の生徒が教師に、集団行動の邪魔になるとの指摘を受けて排除されたとの話も聞きました。つまり、誰も「このひとりのために」との動機をもって行なうプログラムが40年前の運動会にはなかったこととなります。あるのは競争への勝利と、力で相手を圧倒すること、そしてとにもかくにも勝利を目指すことです。

 そのような考えに則すると「このひとりのために」と力を尽くした人の子イエスに対して最高法院を召集し「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」との言葉の意味を概ね推し量れるようになります。問題は「我々の」との言葉に潜む「わたしの」という所有欲です。なぜ有力者はローマ帝国を恐れるのでしょうか。それは人の子イエスの態度によって民衆に騒ぎが起こり、ローマ帝国の軍隊が鎮圧に乗り出すという想定に原因があります。しかしこの最高法院がまっとうであれば、このような意見ばかりで会議が占められる筈がありません。正当な最高法院では全会一致は「罪人の結審」として審議差し戻しとなるからです。それにも拘わらず、大祭司はうそぶきます。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたには好都合だとは考えないのか」。大祭司の策略が露わになる瞬間です。「やむを得ない」でなく、積極的にイエス・キリストの殺害を肯定しています。カイアファにも「このひとりのために」とわが身を省みず神の愛を証しし続けたイエス・キリストの姿は隠されています。彼には分かりません。

 イエス・キリストの殺害のために知略を巡らせる大祭司カイアファ。それは神のご計画からは大きく外れているように思えます。しかしイエス・キリストは、これまでそうであったように、誰に対しても「このひとりのために」と決して特定の集団のためにではなく、むしろその集団から外れていく人々のため神の愛の力を発揮されました。すでにカイアファの知略は、神のご計画から大きく外れているどころか、期せずして神の御旨につつまれてさえいます。それはイエス・キリストの殺害が、いのちの滅びに留まらず、復活に定められているからです。

 人は混乱しパニックに陥ると同調圧力を作りながら少数者、また独特の自己表現をする者、集団行動の苦手な者を「異形の者」として扱い、その人を的にして暴力を伴うガス抜きを行なおうといたします。国内外を問わず、どの民にも同調圧力はあります。そしてそれは福音書の時代から何ら変わるところはありません。だからこそわたしたちは、混乱と混沌の中に置かれた時にこそ、澱の舞う水槽に投げ込まれた気持ちになればこそ、イエス・キリストが今「ほかならないこのひとりのために」何を示そうとされているのか、耳を澄まし、落ち着き、眼を開いてまいりましょう。すると不思議にも心の淀みが澄んでまいります。経験や学びもまずは主なる神に委ねて「イエス様ならば何をなさるのか、何を語りかけるのか」と祈りを日々重ねてまいりたく願います。

2024年10月3日木曜日

2024年 10月6日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第21主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「まことの安らぎのなかで流れる涙」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 28~37 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 
298,21-529(333),
    讃美ファイル 3, 21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 本日は世界聖餐日・世界宣教日。思えば泉北ニュータウン教会の創立者・土山牧羔牧師は、国際連合の組織であるOMEP(「世界幼児教育・保育機構」)のメンバーとして東西冷戦の「鉄のカーテン」を乗り越えて世界を飛び回っておられました。その精神を継承した渡辺敏雄牧師がご健在のころ親睦を深めた方々にはタイ北部に暮らす少数民族との交わりがあったとのことです。代表的な民としてはアカ族・カレン族・モン族・ヤオ族・ラフ族・リス族・フモン族・チャオカオ族がおり、特にカレン族にはキリスト者が多いとのことです。そのような少数民族とタイの人々の交わる街がタイ北部のチェンライ。為替ではタイバーツが円の四倍を数える世となり、もはや日本のNGOが支援するまでもないと言われる時代、人々はすでに大衆消費社会を迎えているようです。

 しかし今年の九月、チェンライ、そして少し南にある古都チェンマイでは豪雨の結果、大小の川が溢れて大規模な洪水が起きました。能登半島のような急峻な河川ではないので流木が人々のいのちを奪うほどに流れてはこないとの話でしたが、タイの河川は概ね護岸工事がありません。だから雨期に雨が降れば洪水は想定内。そのあたりの方々の生活感覚としてはわたしたちとは異なるのかもしれません。いずれにしても、それもまた生活の一部として織り込みずみの人々は、飄々と後片づけに勤しんでいる模様です。

 しかし土地計画にしても開発事業に関しましても、この日本の方がはるかに急峻な土地を開拓して人々は暮らしてきたのだと、少しずつ集まる奥能登の水害の報に耳を傾けますと何とも言えなくなります。能登半島で片付けに励む人々は無表情で動きます。そして「涙も出ません」と取材班に呟くのが精一杯の作業が続きます。

 かつて日本に暮らす者は欧米人に較べて無表情だと言われてまいりました。少なくとも底抜けな明るさはそこにはなく、男性は涙を滅多に見せてはいけないし、女性も取り乱してはならないと躾けられました。動揺が伝わるのを防ぐ一面はあるのかもしれませんが、それでは心を病む人も少なからず生じます。

 そのような「無表情さ」を求めるあり方を人の子イエスに重ねますと様々な課題が鮮やかに見えてまいります。本日の箇所では本来は癒されるべき瀕死の兄弟ラザロが息をひきとりすでに葬られてしまったという冷徹な現実にあって、ラザロの姉妹マリアは人の子イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と呻くほかありません。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われます。「どこに葬ったのか」と。「ユダヤ人たちは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された」、と福音書にははっきり記されます。

 ラザロのいのちを救うために、家族は東奔西走したに違いありません。このような描写は、ラザロの暮らすベタニアが、人の子イエスのいのちを狙う人々の大勢いるところだという弟子たちの先入観や偏狭さを浮き彫りにします。ベタニアの民に対する弟子の恐れは、恐怖に基づく萎縮と決めつけに満ちていたのでしょう。

 イエス・キリストはラザロを甦らせる前に、ベタニアの民と「涙の共同体」を形成します。それは神によって赦された涙であり、信頼と平安あればこその涙です。流される涙はその人の気持ちや心を守り支えます。

 今年もまた告別式の多い一年となりました。様々な打ち合わせを経ながら、わたしたちは涙を流すことすらできなくなる忙しさに置かれます。そのように敢えて忙しくして涙を流す暇もない状態にする支援もあるのだとの他宗教の考えもあります。しかしやはり人は涙を流して初めて次のステップに進めるようにも思えます。わたしたちの間では、時に隠し、そして時に街の片隅で人目を憚らなければならないと躾けられた涙。しかしイエス・キリストは超然として世に向きあうのではなく、ともに涙を流しながら、ベタニアの人々とラザロの死を悼んで交わりを一層深めたところで「死は終わりである」との人々の思い込みに亀裂を生ぜしめます。ラザロは必ず甦るのです。そしてその姿はイエス・キリストの復活をも意味しています。痛ましさに震えるかの地にあって、イエス・キリストは人々の傍らにそっとともにおられるのではないでしょうか。背中をさすりながら、涙を流してよいのだと語りかけておられるのはないでしょうか。イエス・キリストの平安はそのような道筋を幾度も重ねてもわたしたちを決して見放しはいたしません。ともに福音を味わい、キリストの平和をともにしましょう。