2024年8月28日水曜日

2024年 9月1日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第16主日礼拝― 

時間:10時30分~


説教=「風に吹かれてもぶれない根」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 31~38 節
(新共同訳 新約182頁)

讃美= 85,21-306(Ⅱ.177).21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 敗戦後暫くして撮影された写真があります。その写真には古書店の開店を待つために徹夜で並ぶ人々の姿が映っています。様々な言論統制の中で発禁扱いされた書物が再販され、書物をぜひとも読みたいとの好奇心を超えた知識欲をそこには感じます。敗戦直後の大学では教育・研究機関で学生は「真理探究」という言葉を字義通りに尋ねて読書に耽り、現代の教育や産業構造の基礎を築きあげました。『日本経済新聞』の「私の履歴書」というコラムでは実業家が一見すると現職とは直接繋がらない教養を体得した経験がありありと記されています。

 しかし現在では大学でそのような情熱に基づく学生は数としては随分と少なくなりました。所得としては大学に進学しないほうが、生涯賃金が多くなると言われた時代には、高卒で就職する友人を目にしながら「なぜ大学で学ぶのか」と葛藤する学生の姿がありましたが、今は殆どの場合就職に有利となる場としての役割が大半を占めているのが実情です。やりたいことを見つけて情熱を燃やすというよりは、人生の通過点として淡々と過ごす人々が大半です。そのなかで「真理」という言葉が刻まれていたところで何も響かない現実があります。

 しかしその大勢のなかでごく僅かな人々が、生涯にわたる根を求めて苦悩しているのもまた確かです。その苦悩は決して心理学や精神病理学の観点からのみ説明されてはなりません。「真理とは何か」とローマ総督ピラトが問うたとき人の子イエスは黙っていました。その通り神の真理は人の言葉で伝えきれない事柄です。

 本日の箇所でイエスは自らを信じたユダヤの民に語ります。「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この言葉だけとれば、わたしたちにも『聖書』は「高尚な教え」に留まってしまうのですが、ユダヤの民は次のように語ります。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」。この場に集まっている民は、『創世記』の族長物語に登場するアブラハムの子孫であるところに自らの拠り所を見出しており、「だれかの奴隷になったわけではない」というその時の現状での自らの社会での立場を語っています。つまり一つには血族、そしてもう一つには身分に自らの拠り所を求め、そこに立っていることとなります。実はこれこそが、ユダヤの民自らを縛る要因であることに気づきません。

 血族に基づく共同体にいたしましても身分に基づく共同体にいたしましても必ずその枠に入らない人々を排除するとの性格を帯びます。排除された人々は「真理とは何か」という問いを発する以前に、この現状を何とかして欲しいとの苦しみや悲しみにおかれるものです。日常とかけ離れた「真理」は実に空疎です。人の子イエスの語る真理とは、そのようなものとは異なるようです。

 おそらくそれは、イエス・キリストにつながっているかどうかという一線ではないでしょうか。『ヨハネによる福音書』で尊ばれる言葉とは「イエス・キリストに示された神の愛」です。神の愛が真理を含むという仕方で、わたしたちは断片的であるせよ、人としてのあり方、則ち「真理とはいかにあるべきなのか」との問いへと向かい、さらには「誰とともにいたのか」との発想へと変えられます。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところがあなたたちは父から聞いたことを行なっている」。人の子イエスはユダヤの民もまた父なる神との関係を否定はしません。しかしそれはあくまでも誡めという意味での言葉を前提にしています。誡めそのものが神にはなりません。そこには本来のアブラハムがそうであったように、神の語りかけに「アブラハムは主を信じた」という方向転換が伴ってまいります。アブラハムは神の言葉をわがものとしたのではなく、その言葉に従うという態度により困難な旅で滅びることなく一歩を進めることができたのです。「わたしは父のもとで見たことを話している」。主イエスが復活した後の墓を見て恐怖に襲われた女性や、復活そのものを疑った弟子たちもいたように、神の前に立つとのありようはいのちを脅かすわざとの理解がありました。しかしイエス・キリストは父のもとで見たメッセージをその生活すべてを「言葉」として示してくださっています。復活にいたるその姿こそが「神の言葉」です。わたしたちは神の前にあってただただ赦しを乞います。神がわたしたちを抱擁し、抱きしめてくださっているからです。万事窮すとの場に置かれたとき、祈りが赦されています。わたしたちの側から「神頼み」ではない、神がわたしたちの苦しみをともにされます。それこそが神が賜うた真理であり、神の愛です。