―聖霊降臨節 第13主日礼拝―
時間:10時30分~可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
本日の『聖書』の個所では、人の子イエスの教えに慄いた群衆の間に対立が生じ、分裂するなかで、イエスに怯え、殺意すら抱く一部の祭司長やファリサイ派の人々の狼狽ぶりと、かつて夜半にイエスのもとを訪れた律法学者ニコデモの姿が描かれます。ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と語り、イエスの主張の正当性は『律法の書』に厳密に則して判断しなくてはならないと主張する他の学者たちとは一線を画しています。同調圧力に屈しない力を人の子イエスから授かった証し人の姿を見る思いがいたします。さまざまな仕方でユダヤ教の正典である『律法の書』の解釈をねじ曲げようとする人々がいる一方で、イエス・キリストのあゆみもまた『旧約聖書』の解き明かしの延長にあり、さらにはその完成であるとの証しを試みているようです。
しかしわたしたちは本日の場面のニコデモのように『聖書』の言葉に根ざし、思慮を重ねた上で発言し、態度を整えているとは概して言いがたい日々を過ごしています。ただしニコデモもまた初めての出会いから少しずつ変えられて人の子イエスを弁護しようとの勇気をようやく神から授けられるにいたりました。もしも『聖書』の解き明かし、各々のキリストへの向き合い方、また教会のあり方が、世の支配に歪められるというならば、わたしたちはいったいどのように向きあうというのでしょうか。
おそらくわたしたちは、世の風に打ちのめされながらも真摯に生きようと試みるのではないでしょうか。不器用だと言われながらも、要領が悪いと言われながらも、それでも祈りを忘れない生き方を選ぶのではないでしょうか。身に覚えのない言葉を受けたとて、その態度は変わりません。先に召された人々との関わりが記憶にあれば、その記憶が実は使徒パウロの記す、心に帯びた「イエスの焼き印」となりわたしたちの行く道を照らします。そこに敵対する人々がいたとしても、わたしたちはその人たちの顔を見つめて、憎悪を向ける虚しさを知ります。そしてそこにわだかまりがあったとしても、そのモヤモヤを主なる神に委ね、幾年月が費やした実りとしてそのわだかまりが晴れて、互いに受けた傷を癒す交わりを育むことができます。京橋駅や森ノ宮駅の屋根を支える鉄骨には米軍の戦闘機による機銃掃射の跡が今も残っていますが、その跡を眺めながらもそう願いたいのです。
民間人の暮らす地域を焼夷弾で爆撃するという、米軍による無差別爆撃は3月10日の東京大空襲から始まった、と言われています。2時間で10万人が亡くなるというその数は、世界史上類を見ない惨劇でした。ただこの空襲に及んだ爆撃機は、高度2000メートルの飛行命令と対空武装をすべて外されていたことを知る人は少ないのです。3月10日から8月15日正午までのわずか五ヶ月で日本の内地の都市は殆どが焼け野原になりましたが、他方で485機の爆撃機が失われました。1機につき搭乗員は11人。脱出したパイロットのうち救助されず、日本の本土で待ち受けていたのは、復讐の念に燃える群衆や警防団、それを扇動する憲兵でした。
敗戦後BC級戦犯の追及を恐れて、パイロットの殺害に及んだ人々は互いを密告し、デマを流すという混沌に巻き込まれていきました。問題はどのような場面においても戦時なら戦時、平時なら平時の国際法なり軍法会議が適応されなくてはならないところです。空襲の犠牲となった日本人や朝鮮人だけでなく、群衆に殺害されたパイロットもまた戦争の犠牲者です。中国の故事成語に「一将功成って万骨枯れる」との言葉があります。将軍のひとつの手柄の陰には無数の犠牲があるとの意味です。核兵器の使用も含めての本土の空襲作戦を立案したカーチス・ルメイ将軍は戦後に勲一等旭日大綬章を日本政府から贈られました。その意味でいえば、誇らしげに飾られる勲章の裏には、戦争中の混乱が今日まで及ぶ血塗られた十字架のような一面をも帯びていると言えましょう。
わたしたちがこの季節に願うのは、祈りの言葉として内容はごくささやかな願いです。「天のわたしたちのお父さん、あなたの名前をあがめさせてください。あなたの国がきますように。あなたの御旨が天にあるように、地にも実現させてください。わたしたちに日々の糧を、今日もおあたえください。罪を犯す者を赦すように、わたしたちの罪をも赦してください。試練に遭わせないでください。悪より救い出してください。すべての支配と力と栄光は、すべてあなたのものだからです」。律法学者ニコデモもこの祈りに連なる未来を、キリストを通して備えられました。イエス・キリストは自らの犠牲によりすべての人を活かし、復活の先駆けとなったのです。