2024年7月31日水曜日

2024年 8月4日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第12主日礼拝― 

 ―――平和聖日礼拝――― 

時間:10時30分~




説教=「秘めた悲しみに宿る平和への願い」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』7 章 1~9 節
(新共同訳 新約176頁)

讃美=  21-495(310),531,讃美ファイル 3
「主の食卓を囲み」(全節),Ⅱ.171
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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【説教要旨】
 本日の『聖書』の個所では、ガリラヤを巡る最中、ユダヤ人から危険視された人の子イエスが、無益な衝突を避けて宣教の地より遠ざかるなかで「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしているわざを弟子にも見せてやれ。公に知られようとしながら、人知れず行動するような人はいない。自分を世に示せ」と時を見極めない肉親から求められる一方「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっているわざは悪いと証ししているからだ。あなたがたは仮庵の祭に上って行くがよい。わたしはまだ、わたしの時が来ていないからだ」と答えてガリラヤに留まられたとの物語が記されます。「仮庵祭」とは太陽暦の10月ごろに行なわれる古代ユダヤ教の祭で、収穫を祝うとともに、イスラエルの民が出エジプトの最中にイスラエルの民が荒れ野で天幕を張り暮らした出来事を記念する祭で、毎日シロアムの池の水を黄金の器にくみ神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事が行なわれたと現在では言われています。『ヨハネによる福音書』9章1節には見えない人が人の子イエスの奇跡によって目を開かれた場としても記されますが、今朝の箇所ではむしろイエスが兄弟から心ない言葉を投げかけられる場面が強調されます。「兄弟たちはイエスを信じていなかった」との言葉が強調されます。これは他の福音書にはない人の子イエスと肉親との確執でもあり、おそらくは『ヨハネによる福音書』成立にいたるまでのキリスト者の苦しみの一つではなかったかと思われます。肉親との軋轢を抱えながらイエス・キリストとの関わりを尊んだ人々には、キリストへの服従とは上辺での喜びばかりには留まらなかった証しでもあります。

 本日は平和聖日礼拝です。あの戦争が終ったからといって、当事者の生涯にきれいさっぱり節目が着いたなどとは決して申せません。むしろ殆どの戦争当事者がその悲しみを言葉にしないまま天に召されていくという時代を迎えています。

 従軍経験者がすでに天に召された中で初めて言及される人々の群れが幾つかあります。それは敗戦時にいたるまで心身に障がいをおもちの方々がどのような風に吹かれることとなったのか、また日々の過酷な戦闘経験の中で人の心がどのように荒んでいくのか、さらには戦後そのような仕方で人生を遮られた人々が歩まずにはおれなかった道です。映画やドラマでは決して描かれない世界がそこにはあります。名パイロットとされた人物が、敗戦後には酒浸りに陥り、内臓疾患で亡くなる。大戦中に無謀な作戦を立案し、多くの生き残りの怨嗟の的となりながら虚勢を張り虚しく老後を過ごす。交通インフラの鉄道が艦載機の機銃掃射に遭い家族で自分一人が生き残る。大陸での軍務により精神的外傷によって戦後は教員になるものの、何かあると生徒に懲罰といって教育の名の下に暴力を振るう。反社会勢力の資金源となる薬物は実は戦時下には合法的な疲労回復剤だった。身も心も傷つきながら、無秩序の中を生きようとする中で、とうとう正気を失い座敷牢や離れに閉じ込められたこども。

 このような荒んだ世にあって天から繰り降ろされた神の愛の糸を握りしめて、人としての心を取り戻すべく礼拝に集った人々がいました。生き残った罪責感と相俟って、十字架のイエス・キリストに家族を重ねて、二度と戦乱を起こさないと誓った人々は、静かに時代から声を潜めつつあります。

 現在、数多の神学校で牧会に赴こうとする人々が減少しているとの話を聞きます。学術的な研究は『聖書』と関わる限り、その世界現代に「翻訳」して身近な事柄と関連づける上では大いに助けになります。ただしそれは『聖書』と関わり、イエス・キリストと関わることなしには、恐らく将来にはAIにとって変わるような、無機質なデーター収集と何ら変わりの無い作業になってしまうことでしょう。

 わたしたちに求められるのは、様々な思い悩みに直面しながら、そして平和を憂いながらも『聖書』を開き、その中で「真の平和とはいかにあるべきだったのか」「これからどう生きたらよいのか」と『聖書』の言葉に問い尋ねるわざです。それは時を超えて今こそわたしたちに求められる「真理に根を降ろす」わざです。かつて栄養失調で苦しんだこどもたちは現在ではどこにいるのか。放置されたお年寄りは現在ではどこにいるのか。交わりから排除され道端に項垂れた人々はどこにいるのか。平和の時が訪れるまで、わたしたちは見極める力をイエス・キリストから授かりたいと願います。今こそ祈りつつ真摯にイエス・キリストを尋ね求めましょう。