―聖霊降臨節 第11主日礼拝―
時間:10時30分~
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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人には語れない事柄があるように、教会や日本基督教団にも語りづらい事柄があり、それを言葉にするときに深い痛みを伴わずにはおれない場合があります。日本基督教団の場合は1967年に当時の日本基督教団鈴木正久総会議長の名で「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が記されています。その条項をめぐってさまざまな解釈が火花を散らした時代もありましたが、もうひとつの事柄としては1950年代半ばから北海教区で行なわれた「北海道特別開拓伝道(北拓伝)」がありました。それは当時の産業エネルギーであった石炭の採掘場、すなわち北海道の炭鉱街に教会を設立し牧師を派遣し、伝道活動に必要な全経費を当初の一年間は全額日本基督教団が負担、その翌年は半額といった具合で減額していく分、牧師を軸として開拓伝道を行なうというものでした。その結果どうなったかといえば、付帯事業の設立に成功した幾つかの例外を除き、石油への産業エネルギーへの転換に伴い廃坑が相次ぎ、窮乏した牧師一家・教会員も離散、教会が消滅する事態にいたったと言われます。もちろんその困難の中で支えあった牧会者の絆には実に強いものがあり、牧会を退いた仲間とも交わりを維持し続けた者もいたと恩師からは聞きましたが、行方不明者も少なくなかったとも仰せでした。
ただしかし、人は人生のどこかで切羽詰まった暮らしを経ずには、これは絶対に外してはならないという事柄と、これはこだわらなくても大丈夫だとの見極めの基準が学び得ないとも言えるかもしれません。わたしたちは種々の経験から絶対に外してはならない事柄として「イエス・キリストの使信」との見極めがありますのでありがたいところではありますが、今の世におきましては人としてのいのちの拠り所、善悪の判断の根拠があまりにもぼやけ、生きづらい時代になっているとは言えないでしょうか。テレビの報道が正しいとは誰も言わなくなった反面、情報の洪水の中で事柄の見極めが困難となり、人々の心が気づかないまま病んでいくような時代でもあります。そしてそれは身体の満腹さが常態化するほど深刻になってまいります。
その意味でも本日の『聖書』の個所で「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と人の子イエスが語るのは、イエスを救い主だとは認めないユダヤ教の人々にも、わたしたちにも深い問いを投げかけます。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった」とある引用元は『出エジプト記』や『民数記』です。ユダヤ教の正典のひとつ『律法』における神の審判は滅びる者と救われる者との対照が鮮烈で読むに堪えないときもあり、教会の交わりの要である復活信仰も直接には描かれません。しかし本日の箇所のイエス・キリストの教えについて見方を変えますと、論争上の敵対者であれ、自らを「いのちのパン」として差し出しているようにも思えます。そしてその出典を、その時代のユダヤ教のもうひとつの正典『預言者』に求めているところからも、ただ先祖の行いを踏襲する、繰り返すというのではなく、復活の出来事を通して開かれた未来に足を踏み入れ、「世を生かす」ために働く源となるようにとのメッセージが隠されています。返す刀で『旧約聖書』を否定し、神が創造したこの世界を、身体も含め否定的に理解するその時代のギリシア系の考え方に対する強烈な一撃となります。身体は神の霊の宿る神殿として大切にされるものです。
時が満ちて身体が世を活かされたしるしばかりになったとしても、その生きざまというものが教会員のみなさまの血肉になっていると考えます。「年齢は決して減るものではない」とのお言葉も交わりの中で賜りました。これはご高齢の方だけでなく誰もが実感するところです。けれどもだからこそ、わたしたちを養ってくださるイエス・キリストにすべてを委ねたいと願うのです。その願いに破れがあり、ひび割れがあったとしても、加齢という現実がその人の未来を拓き、そして究極にはイエス・キリストへの復活へとつながることで、わたしたちが聖礼典以前の問題として「いのちのパン」に養われたかどうかが問われてまいります。『聖書』の言葉さえただのスローガンに留まるならば、他者を排除する方便に容易にすり替わります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とはそのすり替えへの歯止めであるにも拘わらず、です。
イエス・キリストはわたしたちのために自らの身体を献げてくださいました。それはわたしたちが限りある時間の中におかれ、様々な過ちを経ながらも、やがて神自らが創造された人そのものの姿に立つためです。神は自らにかたどってわたしたちを創造されました。そして今も「活きよ」と語り、キリストを通して愛されています。